20年をふりかえって


教育工学との出会い

 私が、教育工学の研究に深く関わりはじめたのは、1974年頃からであるから、今年でちょうど20年になる。大学を1972年の3月に卒業して、教育現場の非常勤講師やカリキュラム開発の相談、教育相談、果ては町の楽団のコンダクターなどをして収入を得ながら、適当に自由な生活を楽しんでいた私が、突然、まじめに研究らしいものに取り組みはじめたのはコンピュータという機械に出会い、それを自由に使わせていただける環境が与えられたときからであった。
 前任校の京都教育大学に教育工学センターが設置されたのが1973年度であり、大学の助手になったのが、1976年の1月であった。当時、教育工学センターにおられた西之園晴夫先生が、ミニ・コンピュータの教育利用に関する研究を進めていたこともあって、教員養成系では最も規模の大きいコンピュータシステムが導入された。
 といっても、当時のコンピュータは、メモリが24KB、ディスクが5MB程度のもので(それでも確か 4〜5千万円はしたと思う)、まず、ブートストラップという機械語のソフト(14 Stepぐらいあったか?)を手作業で1ステップづつスイッチを動かして入力し、それで紙テープで作られている基本ソフトを読み込ませ、さらに、コンパイラを紙テープで読み込ませてはじめて利用できるといった強者であった。
 ディスクオペレーティングシステム(DOS)は、まだ不安定で、何かトラブルが起こると、はじめから紙テープ入力ということになるのだが、何しろFORTORANのコンパイラなどは紙テープだけで3巻以上あり、読み込ませた後に巻きとっていると、途中でプツンと切れてしまったりして大変であった。
 入出力はすべて紙テープで、コンパイラの結果なども、オブジェクトファイルとして紙テープで出力されてくるので(ディスクの容量が少ないため)、英文字で入力したプログラムが、機械語に変換される様子は理屈抜きで理解できる代物であった。

 実は、コンピュータのプログラミングについては、大学の卒業後も強い関心があり(本当は小学校の頃から自分がおとなになったころには、計算する機械が普及すると考えていて、その理由から、「ソロバン」の実習を真面目にせずに、小学校の先生を困らせたこともある)、紙の上だけででも勉強しなければと考え、当時京都教育大学の学生だった吉谷君と、石田さんという学生と3名で2年ほど前から大学でコンピュータの自主ゼミをはじめていた。本屋に行ってもコンピュータに関する和書は数冊といった状況で、その中からDaniel D. McCrakenの「科学技術計算」(森口繁一ら訳)という黒い本を教科書に選んだ。科学計算式をどのようにアルゴリズムとして記述するかといったFORTORAN の入門書であったが、利用環境が全くなく、指導者のいない私達は、紙の上で、プログラムを考え、3人で回り持ちでCHECK し、計算をシミュレートして確認するという勉強であった。しかし、約1年かかって同じ教科書を2回繰り返して、机上で学習し、科学計算の手法とFORTORAN の基礎を完全にマスターしてしまった。この時代にむしろコンピュータを使えず、紙の上で幾度もシミュレートしながらアルゴリズムを理解するという方法を学習したことは、後で非常に役立った。

 コンピュータを利用できる環境が与えられるようになったときの私は、まさに水を得た魚であった。当時、教育大学の教官でコンピュータを使えるのは理数系の教官を含めても1〜2名という状態で、この巨大な機械は、すぐに私と学生の「おもちゃ」になった。毎日のように、時間のある限り端末の前に座って、これまで学習してきたプログラムを入力し、実際に実行してみるという日が続いた。1ヶ月もしないうちに、知っているアルゴリズムはすべて実行してしまった。
 当時、私は環境教育で有名な理科教育の大内正夫先生、藤田哲雄先生らと共同研究を進めていて、学習データを処理することに興味を持っていた。理科教育の方では、物理教育の原島鮮氏が、コンピュータを利用して物理の理論的現象をコンピュータでグラフ化する試みを発表しはじめていたところで、私も「教育でコンピュータを使うなら、数値計算より、このようなグラフ表示の工夫や、文字の処理だ」と考えていたので、その方面の勉強をはじめるようになった。はじめての論文の「子どもの科学的思考過程測定の方法論的研究」や「ネットワーク構造を用いた思考過程追跡用プログラムの開発」は、このような経緯で生まれている。助手になる前の話である。
 この2つの研究発表を契機として、私の生活はますます研究(というよりは、新しい道具を作り出す仕事)に深入りするようになる。電子通信学会には、毎月のように教育技術研究会があり、一度出席させてもらってからは、関西や中部であるたびに、自費で出席させてもらった。当時30代から40代そこそこであった坂元昂、水越敏行、西之園晴夫、藤田広一、成瀬正行、中山和彦、木村捨雄といった今やそうそうたる諸氏が、自分の研究の枠組みを論じ、教育の実践的問題を教育現場の先生方とともに解決していくという研究のアプローチを示していた。このような若い時期に、第1線の研究者の方々と交流をもてたことは私にとってはLuckyであった。大学では学ばなかった学習に関する新しい理論やデータ処理法、教育工学の方法論など、新しいアイデア、最前線の研究内容が、研究会に出席するだけで聞くことができるのである。また、その中で、SP表や、反応分布線のパラメータ化など、学習反応データ処理の理論の発表などがあったが、研究会に出席して話を聞くと、帰ったらすぐにそのプログラムを作成し実行してみるというのが常であった。幸いその当時、中学校や職業高校の教育現場で非常勤の教師もしていたので、学習データの収集には事欠かなかった。そのような実践的な検証を自分で行なってみて、実践的研究として意味のある方法論と、紙の上だけの理論研究とを見分ける能力がついたように思う。
その意味では、研究者としては、遠回りな道を選んできたようなはじめの数年間は、教育工学という学問が教育実践を対象とした研究を軸として発展してきただけに、私にとっては、むしろ、武器になっていたようだ。

 さて、教育データ処理のプログラム開発については、半年ぐらいで、当時試みられていたことはほとんどマスターしてしまった。しかし、ソフトウェアの開発環境はまだ不十分であった。上記のミニ・コンピュータは業者の開発途上の機械であったために、利用中にすぐにダウンしたり、理屈にあわない結果を出したりした。コンパイラやインタプリタとして提供されたFORTRANもメモリ不足のために、ちょっと実用的なものを作ろうとすると、すぐにエラーを起こしてしまうという状態であった。「自分達の使うものは自分達で作れ」という西之園先生の方針に従って、開発言語はおのずとアセンブラや機械語にうつり、開発するソフトも、ファイル管理システム、エディタ、検索システム、日本語エディタ、果ては、オペレーティングシステム、コンパイラと計算機会社まがいのことに発展していった。しかもこの時期の仕事は、私と、当時学部の学生だった下村勉君の二人だけで行ったのだから、そのパワーは今考えても驚異的である。
 特に、西之園先生がみつけてきた、マッカーシィーのLISP(リスト処理言語)のインタプリンタを作ろうという話は、「言うは易し、行うは??...」の世界であった。LISPは当時、記号処理や言語解析の研究など人工知能の研究をはじめていた工学部の研究者などが注目していたもので、ミニコンでは、まだ動作していなかった。それを西之園先生と京都大学の同期で、今や自然言語処理で世界的に有名な研究者である長尾真先生のところで開発しているというので、京都教育大学のミニコンでも動くようにしようというわけである。
 参考になるのは、英文のLISP 1.5 Manual マニュアル一冊で、LISPがどんな目的の言語か、何に応用できるものかまったくわからず、これまでの経験と勘だけで挑戦することになった。この課題は、確か半年ほどかけてなんとか動くところまでこぎつけたが、実用化まではいたらなかった。しかし、FORTRANのつぎに、アセンブラに出会い、第三番目の言語としてLISPに出会ったことは、コンピュータの応用がどのように発展していくかについて大きな示唆をえた。当時、「コンピュータ言語は2つのグループにわけることが出来る。LISPとそれ以外の言語」といわれたように、LISPは、コンピュータによる処理の対象、処理のメカニズムが他とはきわめて異なっていたからである。このことは、コンピュータの内部での処理のしくみ、人工知能的方法のからくり、果ては、情報の表現などについての知識と技術がわかり、その後、逆に、人間の情報処理や思考などについて本質的なレベルでものを考えることができるようになった。
 この開発と長尾先生や辻井潤一君(今は英国のマンチェスター大学で計算機言語の教授をしている研究者、当時長尾研究室の助教授であったとともに、高校時代の親友でもあった。)のもとで学んだ言語処理の方法、知識の記述、機械翻訳、日本語ワープロの開発などの基礎研究は、教育におけるコンピュータ利用のこれまでにない方向性を見いだす結果につながり、後に、京都教育大のシステムを特徴づけることになる。

 もう一つの大きな仕事は、日本語の処理をコンピュータに行なわせようという試みであった。すでに、私が、研究に参加する前から西之園先生は、教材を日本語で入力するタイプライターを購入し、教科書を片っ端から、紙テープに入力する作業を始めていた。まだ漢字JISコードも定まっていない時代の話しで、どのようにすれば、日本語を出力できるかを検討中の段階であった。そこで、日本語のレタリングの本を白黒の写真に撮り、それをスライドで拡大して24×24ドットのパタンを決め、マークカードを塗りつぶして、漢字パタンを作ることになった(確かこれだけで3年ほどかかった)。この漢字パタンをディスクに管理し、静電プロッタやXYプロッタに教材を出力できるようにするというのが、私への課題であった。これは、理屈では簡単そうであったが、なかなか難しい仕事であった。高速にディスクにアクセスしてパタンを構築し、AND OR 演算を駆使して、正確な位置に漢字として、表示させ読めるように配置するのである。出力装置とのインターフェイスも手作りの部分もあり、割り込みのタイミングが思うようにいかず、1ケ月以上かかったかも知れない。漢字表示できるようになると、次は日本語のエディタである。教材の入力間違いを修正するために、カナ漢字変換の辞書を作り、簡単なワープロを作成することになった。
 すべてのソフトが動くようになった時、私達は結局、エディタ、ワープロ、インタプリタ、データベースまで、基本的なソフトはすべて一から手作りしてしまったことになった。すなわち、裸のコンピュータを誰でも利用できるようにするためのソフトウェアの仕組みがすべて見えてしまったし、自分で自分達のために開発用言語をデザインしたり、ツールを作り出したりする方法をマスターしてしまったわけである。 このように、ソフトウェアの基本的な仕掛けを自ら作り出すという時代にコンピュータとともに育ってきたことは、私にとっては、とても貴重な体験であった。コンピュータとは何か? どんなことができるようになるか、人間はコンピュータとどのように付き合っていくべきか、といったことに対する基本的な考え方は、この経験と、いつもたゆまず考える習慣から生まれている。

 さて、1970年代から1980年代の前半にかけて教育工学のうちでもシステム開発を中心とした研究を行っていたところは京都教育大学と岐阜大学、長崎大学と筑波大学、東京学芸大学などかぞえるほどであった。そのうちでも、教育現場の教育情報を統括的に支援するためのシステムの設計、開発、実用化に関する研究は、京都教育大学と岐阜大学、長崎大学の3つの教育工学センターですべて行ってしまったといっても過言でない。
 1980年代に入って、研究機関としての教育工学センターは、方法論の探求や開発研究から、大学のなかで対象領域を何かに絞っていくように求められる。多くの教育工学センターは、教育実践や教育実習を対象としたセンターに生まれかわり、名前も「教育実践研究指導センター」となる。教育情報の処理システムの開発研究については、私達が、当時の技術と環境で出来そうな研究はすべてやってしまった感じで、次のもっと大規模で、組織的な新しいテーマが求められていた。ちょうどそのころ、マイクロコンピュータが輸入されるようになってきた。時代は、大きなシステムの共同利用から、学校や個人がコンピュータを購入できる時代を予感させた。

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新しい構想の教育大学

 兵庫・上越・鳴門の新しい構想の3大学は、昭和47年に制定された現職教育の再教育のための制度の答申にさかのぼる。一番はじめは、兵庫教員大学を全国に1つだけ作る予定であったはずが、いつのまにか上越や鳴門にもできるようになったのは、政治家が動いたということであろうか。
 学校教育研究センターを新構想の大学の教育実践や教師支援の中核の施設として設置する構想は、準備室の段階からあった。確か岐阜大学の成瀬正行先生が基本構想をデザインしておられて、西之園先生も深くかかわっておられたはずである。1977・1978年頃のことであった。
 1979年になって、西之園先生が1年間在外研究員としてカナダへ出張されることになり、教育工学センターは、事務のスタイナー紀美子さんを除くと私1人になった。この1年間はまたいろいろな事件のあった年であるが、私自身の力がためされる機会でもあった。
 私は、心の中に1つの誓いをたてた。「西之園先生がいないからといって、研究成果の量と質が下がったといわれないようにすること」。それまでの西之園・永野のペアは、Beatles のジョン・レノンとポール・マッカートニーのように、それぞれが自分の研究課題をどんどん進めながら、お互いに連名で研究発表を進めるというパタンであった。システム開発は主として私が行なうが、まとめの段階で枠組みや位置づけを助けてもらうことが多く、通信学会の教育技術研究会などを含め、3ヶ月に1回ぐらいの割合で発表していた。しかも毎回が新しいテーマであったように思う。アイデアが出てくれば、それを得意のプログラム開発で具現化して、教育現場で適用して評価するというパタンであるから、アイデアと開発の腕力があれば、いくらでも成果は出てくるのであるが、それ以前に、いくらでもやらなければならないことは思いついた。また、この頃には、ソフトウェア開発を手伝ってくれる学部生もずいぶん育ってきて、研究開発は面白いほど進んだ。特に、当時、教育工学センターで日本語をコンピュータで処理したり、教材を日本語で入出力できるコンピュータを開発していたのは京都教育大学だけであったので、作り出されたものはほとんどが新しい試みであり、発表するに価したものである。
 それが、学生が手伝ってくれるとはいえ、一人で続けることになったのだから2倍以上の課題であった。しかも、これまで西之園教授のレベルで止っていたセンターの運営に関する様々な問題が助手である私を巻き込んできた。当時は、教育工学センターを解体し別のセンターへの改組するという話が持ちあがり、うかうかしていると自分の身分もどうなるかといった風当たりであった。西之園先生に一度だけ手紙で相談を持ちかけると、「助手はそんなことは気にせず、勉強と研究だけ続けていればよい」との回答であったが、実際はそうはいかなかった。「教育工学センターは何のためのセンターか」「その存在意義は...」、といった理解のない質問に、文書や会議で説明しなければならない時も多かった。今もかかえるセンター独特の悩みである。
 岐阜大学の成瀬正行先生に相談したこともある。その時、兵庫教員大学(という名前になるはずであった)を作る予定であること、学校教育研究センターという新しい組織を考えていることなどの資料をみせていただいたように思う。そして、成瀬先生の考えでは、西之園先生をセンターの専任教官にお願いする予定であるとのことであったので、あまり学内問題が変な方向に進むようならば、私もそちらに移ればよいというような話であった。

 教育工学は、現在いろいろな対象領域に拡がろうとしているが、現職教員の研究活動の支援というところに研究のテーマがうつりかけていた私にとっては新しい構想のこの大学は大変魅力のある制度に見えた。「教育工学にとっても新しい課題がみつかった」当時そう考えたものである。
 ところが、こともあろうに、当時、全国国立大学教育工学センター協議会の会長であり、教育工学の研究ばかりでなく、政策的にも中心的役割りを果しておられた成瀬先生が、1980年の2月に突然急逝されたのである。クモ膜下出血で倒れて1週間の命であった。何も前触れもなく襲った病は、成瀬先生のアイデア、動きかけていた政策を凍結させた。しかも、西之園先生は長期海外出張中の出来事であった。
 西之園先生が日本へ帰ってこられて、京都教育大学の中でも、また、兵庫教育大学の人事についてもいろいろなことがあった。この間の出来事を詳しく書くことは控えたい。しかし、結論は、西之園先生は兵庫に行くことをやめ、代わりに私を推薦しようと考えているということであった。
 そんな提案で、当時自家用車で兵庫教育大学の予定地まで見にいったこともある。まだ、何も建っていない土地に学校教育研究センター予定地という看板が立っていたことが印象的であった。しかし、その話も次の週になると、「やはり兵庫に行くのはやめなさい」ということになった。「学内にもいろいろと問題を抱えているし、この際、外へ出て勉強し、実力をつけた方が良い」との事で、京都大学の長尾研究室に内地研究員として留学することになった。1980年の春のことである。

 このようなわけで、兵庫教育大学で、新しいシステムを作る話は途中で切れてしまった。しかし、私の頭の中には、「教育工学が発展するためには、現職教員の大学院での仕事が重要である。誰かがセンターに行って、教育工学らしい仕事を発展させなければ」、という考えははなれなかった。
上越と鳴門にも大学院ができることになり、やはり学校教育研究センタ−ができることになった。上越の準備は、東京学芸大学の小金井正巳先生、鳴門の準備は水越敏之先生がされていた。2人とも教育工学の第1人者なのでこれで安泰かなと安心し、その後学校教育研究センタ−の問題は、しばらくは私の心から離れることになる。

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1984年の出来事

 1983年になって、研究も一段落し、その次のテ−マに取りかかる時期になって、私自身は、そろそろ京都教育大学を離れなければと思うようになっていた。他の教育工学の研究者仲間からは西之園・永野ペアが別々に仕事をするなど考えられないことであったようであるが、私は逆に、「教育工学を専門とする研究者がまだ全国的に少ないのに2人も同じ大学にいるのは発展のためによくない。せっかく育ててもらったのだからはやくひとり立ちして、恩を返そう」と考えていた。変な論理かも知れないが、私にとっては自然な考えで、西之園先生もそれほど違った考えではなかったようだ。
 そんな時、ある国立大学の教育工学センタ−に新しいポストが出来ることになり、私に是非という話がもち上がった。上記のように考えていた私は、その話を積極的に考えるようになり、1984年の夏頃には、先方の助教授のK氏と将来の構想や移籍を前提とした打ち合わせを行なっていた。
 1984年の10月のこと、国立大学のセンタ−協議会が東京方面であった時の帰り道、私は、先の人事の件でK氏と最終的な打ち合わせのために喫茶店で話をすることになったのだが、その時にもうひとりの研究仲間である助教授のA氏がたまたま同席することになった。その時、私自身が京都教育大学を出てもよいと考えていることが、その助教授に伝わってしまったのである。「そんなことが可能ならば、この話はちょっと待ってくれないか。」というのが間に入ったA氏の弁。「実は、いろいろな事情で、現在、鳴門教育大学の学校教育研究センタ−の専任教官をさがしている。永野さんも候補に上がったが、京都教育大学で助教授になったばかりの永野さんを西之園先生がはなして下さるわけがない。」とのことで見送った。「そんな可能性があるなら、こちらを先に考えてくれないか」というわけである。
 鳴門については、すでに適任の方がみつかったと鳴門教育大学に着任していた吉崎静夫氏に聞いていたので寝耳に水であったが、その日のうちにA氏から吉崎氏に話が伝わり、水越先生に伝わり、2、3週間の間に鳴門教育大学に移籍する話がまとまってしまったのである。ところで、この移籍の問題は、まったく西之園先生の耳には入っていなかった。そこで、これまでの経過や私の考え方を言葉で伝えるのは困難と考え、私は手紙に書き、メッセ−ジを伝えることにした。先生の答えは「そうしてみるか」の一言であった。

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鳴門教育大学へ

 鳴門教育大学の学校教育研究センターに京都から転出したのは、1985年の4月であった。この新しい職場ではじめの目標を3つにしぼった。
 1つは、学校教育研究センターの建物を設計することである。高校時代にはデザイナーになりたくて環境デザインというあたらしい領域をかじっていた私は、教育工学のなかで環境設計がもっとも大切と考えていた。部屋のサイズ、電気の位置、色、人の流れ、スペース、ハードウエアの選定、管理の方法などありとあらゆることを考え、処理していった。幸い、当時の施設課長の理解もあり、考えていたことの90%以上が実現した。
 2つめは、中型クラスのコンピュータを導入して、教育情報のネットワークシステムを完成させることであった。教員養成系には大きなコンピュータは必要ないとの文部省の回答であったが、目的や教育情報ネットワークシステムの必要性などを何度も説明し、当時の政策にものって、1987年度にみとめられた。その後、開発された数々のシステムは、大学院教育や遠隔地との修了生、共同研究のグループとの情報交換に利用されている。また、同じシステムが、尼崎の教育総合センターに導入され、実用に供されている。これも、当面の目標は達成したことになる。
 3つめの目標は、どんなに忙しくても研究を継続することであった。当面のライバルは、京都教育大学と岐阜大学、筑波大学であったが、この鳴門では京都の時のようなパワーで開発を続けることは、無理だろうと考えていた。京都教育大学時代は、中型コンピュータシステムがあり、システム開発のトレーニングをうけた優秀な学生が数人いて、開発を中心に研究が進んでいた。しかし、鳴門教育大学に移れば、大学院生は現職教員が中心であり、コンピュータの基礎的トレーニングもうける時間もないのでこれまでのような研究のテーマを設定しても私一人では無理だろう。また授業研究や教師教育の研究も、教育方法の教官と競合するのでさけた方がよい。結局、テーマとしては当時パソコンにうつりつつあった教材開発支援や教育情報データベースをより実用化するための研究と普及活動に移行することになるだろうと思っていた。

 はじめに取り組んだのは、教材開発支援ツールの開発であった。コンピュータが計算機ではなく、文書や図表を編集したり、果ては写真や映像を取り込める機械なのに、現場に普及しかけているパソコンは非力であった。コンピュータのプログラムが作れる人だけがコンピュータを使えるといった状態であった。当時はまだマルチメディアの言葉も普及していなかったが、科研の補助や委任経理金の補助を受けて、だれでも使えるようなマルチメディアによる教材開発支援システムを開発することになった。EDDY-osの開発である。おそらくは、パソコンレベルでは日本で、はじめての実用システムであったであろう。VTRをコンピュータでコントロールし、現在のHyper Card のようなボタン機能(このシステムではシールと呼んだ)による画面制御、メディアの部品化、マルチウィンド、タッチパネルなどのオリジナルな概念を取り入れた画期的なものであった。
 映像系のシステムがふくまれているので、設計したソフトを業者に開発してもらい、私たちは教育現場の適用と評価を行う予定の試験研究であったが、なかなかこちらのアイデアが業者に伝わらず、仕様書ではなく、デモ版を試作して説明しているうち、結局、院生と私との2人でこのシステムを作り上げてしまった。そのときの第1期生が京都教育大学時代に3人でコンピュータの勉強をした一人の吉谷君であったとはなんという奇遇であろうか。
 システム開発は、無理と思っていたのに、その後も京都教育大学時代にシステム作りをサポートしてきた三尾君、奥村君、榊原君、伊藤君といった諸君が、次々と鳴門教育大学の大学院に来ることになり、研究室は京都教育大学時代と同様にシステム開発が中心に戻っていった。また現職でも、田村さん、上田さん、などシステム作りに参加できる力量を持った院生が育ってきたので、1人はシステム、1人は実践という時代が数年続いていた。
 教育情報ネットワークシステムの研究も、カリキュラム開発についても、鳴門教育大で開発したシステムと同じシステムが数年遅れて尼崎の教育総合センターに導入され、実用に供されながら評価されるということがつづいていて、研究テーマには事欠かない時代が続いている。しかし、机上の研究とはことなり、実際にものを動かしながら研究をつづけていくというのは、大変なことでもある。多くの仕事は、過去の問題や社会的問題を引きずり、研究から見れば95%以上が、雑用ということになる。しかし、その雑用をすべてこなしているからこそ、5%の研究が進んでいるというのが、私の踏み入った研究領域の特徴であろう。
 しかし、最近、研究センターの教官に修論を指導してもらう制度が変化してきて、昔のように、院生とがむしゃらにおもしろそうな研究をおっかけることも、困難になりつつある。いよいよ、方向転換か...。

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【数年前,鳴門教育大学時代にまとめた随筆,「20年をふりかえって」の前半部ををそのまま掲示した.これは,1994年の3月に書いてものであるが,すでに鳴門を離れて,他の大学へ移動する予感のあることがうかがえるのが,自分で読んでいてもおもしろい】