研究室の仲間たち


研究室の様子

 鳴門時代に入ってからの研究室の様子は、それぞれの院生の作文から想像できると思われるので、詳しくは触れない。ここでは、私の方から研究室を運営してきた方針をまとめてみよう。

(1)おもしろくない研究はテーマとしない

 私自身の研究テーマについても、院生のテーマについても、まず、私がおもしろいと思えないものは認めない。おもしろいということは、誰もやったことがなく、やりがいがあり、教育的意義のあるものということになるので、最後までがんばれば、おのずとオリジナリティーがでてくる。ただ、他の人がやっていない研究は、方法論的にも、研究の意義も他人に理解されるのに時間がかかるので大変ではあるが....。そんなわけで、院生の研究テーマも私との共同研究になる場合が多かった。時々、院生の方が、もたもたしていると、自分の方でどんどん進めてしまって、しまったと思うことも多かったと反省している。

(2)雑用のようにみえる計画されたカリキュラム

 「永野研究室の研究指導は、研究以外の実践的なお手伝いが多い」。多くの院生の共通した意見である。研究室は、研究とは別に、学校教育研究センターとしての業務を毎日のようにこなしているため、いつも多忙である。一人ではこなせないほど、解決しなければならない問題が出てくるので、院生は自ずと、それに巻き込まれることになる。
 しかし、実際は、私自身がほんとうに雑用と考える仕事は院生には頼まないようにしている。いろいろと考えた上で、この仕事を手伝ってもらうことが、彼のためにどんな技術や知識、経験になるかを考え、自分で納得した上で、依頼するようにしている。今彼にとって、必要な体験は何かをいつも考えるようにしている。
 しかし、自分のためだけに他人を利用するというのは避けたいと思っているが、どうしても意義がみつからない雑用をたのまざるをえないときもたまにはある。そんな時は、「すまないけれど....」の接頭詞がつくことが多い。本当にすまないけれどと思った時である。
 マニュアルを作成したり、説明をしたり、研究会を開催したりといった仕事は、現場では非常に多いと思っていたが、経験している教師は少ないようである。院生の作文にも「修論の内容より、雑用で学んだ内容の方が役に立った」という意見が多かった。雑用ではない。計画されたカリキュラムなのである。共同作業で、自分の役割をみつける。一つのことを、みんなでやるというのは、いろいろな意味で、自分を知るチャンスである。雑用ととるか、自らのためととるかは院生次第である。

(3)要求水準は高く

 昔、織田信長の直下にどうして秀吉のような人物が育ったのかを考えたことがある。私はなぜ西之園先生のもとで力をつけたのかを考えていたときである。結論は、仕事や環境が人の能力を引き出す事になったということであろう。西之園先生のもとでの仕事の量は、今の比ではなかったように思う。しかも、要求水準は高かった。この環境の中で仕事をこなしてきたことが、自分にあった仕事をみつけ、必要な能力を磨くことになる。
 高校の時に、あそびで、おもしろいルールを発見した。公園で10メートルぐらい離れた木に小石を投げて当てようと何回も投げるのだが、3回に1回ぐらいしかあたらない。ある時、もっとカッコよいことをしようと木にトランプぐらいのはり紙をし、何回に1回この紙にあたるかを友達と競争することにした。結果、トランプにあたるのは、20回に1回もなかったが、ほとんどの小石が木にはあたっているのである。高い水準に目標をおき挑戦することが、目標は達成されなくても、本人の能力を高めることになる。京都教育大学でも鳴門教育大学でも特別に才能のある人が選ばれて入ってきているわけではない。環境の中で、磨かれるのである。
 研究の内容でも、ちょっとした作業でも、要求水準はさげない。たくさんの事例からそう考えている。

(4)考える....ひたすら考える

 小さいころから、「いつも自分で考え、自分でやってみよ」の精神で育てられてきた私は、学術的な知識や専門的な知識はたいしたことはないが、思考すること自身が好きなのである。物の理屈であろうが、人間のことであろうが、社会の問題であろうが、何でも考え、自分なりの論理を組み立ててみて、事実を知ってまた組み立て直すという習慣がついている。「永野先生の話はどこからが研究指導になるかわからない」とは、院生の評だが、雑談をしている場合も話をしながら自分の頭をまた整理している場合が多く、いつのまにか、研究のテーマにはなしが進んでしまうようである。アイデアや方法は一瞬にぬすむものである。そのためにはいつも、そのことを考えていなければ....。テープレコーダで録音しているだけでは、ぬすめない。

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研究室の修了生達

 修了生の多くが、今でも私たちと連絡を取りながら、それぞれの職場で独創的で実践的な研究を続けてくれているのが研究室の修了生の特徴であろうか。
学部からやってきた院生のうち、三尾忠男君は、1年間の技術補佐員として手伝ってくれた後、放送教育開発センターの助手として赴任していった。同センターでは最も若い助手を採用したことになる。日本教育工学会の研究会の事務局などの事務的雑用も多い中、教育工学の藤田恵璽先生の指導を受けて、システム開発だけでなく測定の理論的なことも勉強し、がんばっている。確か、今年は、若手の在外研究員として、アメリカに行くことになっているはずである。
 同期の奥村英樹君は、終了後、福武書店のニューメディア研究所に行ったが、3年前、四国女子大学の助手として採用され、今は講師となって情報教育の研究や支援ソフトの開発を続けている。さらに、伊藤剛和君は、やはり、技術補佐員を1年つとめた後、昨年の春、望まれて園田女子大学の情報教育センターの助手となり、情報教育やシステム開発の研究を続けようとしている。京都教育大学時代からの教え子達が、終了後も大学に就職して研究を続けてくれることは心強い限りである。
 その他にも、英語教育の近藤摂子さん、最近では、現職からきた加藤直樹君が、研究職として活躍している。最近、本学にも博士課程をつくろうという話が持ち上がり、修了生の動向の調査があったが、1つの研究室から5名の研究者を出しているところはまだないようで、彼らの努力ぶりがよくわかる。
 現職から来た院生達もがんばっている。田村剛啓君は、地元の南国市に帰り、勉強をつづけながら数年をかけて情報教育の研究グループを組織し、教育委員会の理解を得ながら、コンピュータ導入、情報教育の実践研究を進めている。現場の実践研究の研究奨励賞や補助金などももらって、精力的に活動を行っている期待のグループである。
 尼崎教育総合センターは、その発足時から、私とは深い関わりがある。地域が兵庫県なので、本大学院に派遣された教師はいないが、内地研究員や、研究プロジェクトを通して、新しいタイプの教育実践をどんどん進めていってくれるエネルギーがある。
 中村武弘君、濱田久美子さん、渡辺カツコさんなど、永野研究室の修了生であるなしに限らず、教育現場に戻っても、毎年のように、新しい研究テーマを設定し、休みになったら遠い現地から研究センターへ足を運んで、指導を受けに来る人たちも少なくない。

 このような、具体的な活動を支援していると、当初考えていた学校教育研究センターがようやく機能してきたなあと実感する。鳴門へ来たことは、無駄ではなかった。

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N先生と私

 最後に、N先生から学んだことについてふれよう。
N先生との出会いは、私の人生にとって最も重要な出来事であることは間違いがない。いわゆる最も近い弟子の関係であるわけだが、研究者養成機関でない京都教育大学のN先生の直接の教え子たちのなかで、研究者になっているのは、私と電気通信大学にいる一年先輩の岡本敏雄教授の2名ぐらいだろうから、特に門下生とかにこだわる必要もない。しかし、私自身は、N先生のすばらしい人間性の中で、どれほど大きな心で育てられた語り尽くせない。まだ、現役で、しかも今は鳴門教育大学にいらっしゃるので、いろいろなことを書くことは控えたいが、それでも2、3のエピソ−ドを書くことは許されるであろう。
 私は昭和23年生まれ、いわゆる団塊の世代で、古い権力の体制を打ち破り、自己を批判し、新しい価値観を持った社会を創造するという環境の中で大学生活を送った。「体制の中で、上の人の言うことを聞き、素直に従っていればいつか天下を取った時に..」といった様な考えは全くない。特に私は、家庭でも、「自分で考え自分で決めそのかわり自分で責任をとれ」をモットーにして育てられたので、どうも、「世間では...」とか、「ここは一歩下がって」とか、「ここは先生をたてて」、といった考え方は苦手なのである。そんな意味では、社会的にはまだこどもで、とても扱いにくい人間だったように思う。私の大学のときの指導教官などは、あまりにも人生観があわないために「あなたは、まともな社会人になれないでしょう」と予言をしたぐらいである。そんなことを言われていも、私は心の中では、「それはあなたの価値観とは違うだけ」「勉強はおろそかにはしませんから、それ以上は干渉しないで」と思っていた。

 N先生は、その意味では、一風変わっていた。たとえ弟子である私達に対しても、何かを命令されたり、指示したり、教えようとしたりはされた記憶がない。助手時代も、そして今でもそうである。これは、私の人生観にはあっていた。N先生とは自然体で接することが出来たのである。しかし、そのかわり何でも自分で考えなければならなかった。結論が出て相談したとしても、結局答はなかった。いつも、「やってみなさい」が暗黙の答えであった。従って、同じ研究室に10年近くいて、昼食の時などいつも一緒に弁当を食べたりしていたが、研究のことや、生活のことなど真面目に相談をした記憶が少ない。私はいつもN先生のたとえ話や研究に対する態度から、自分に必要なものをぬすむようにしてきた。私のやろうとしている研究の方向など説明しなくてもN先生にはよくわかるようであったので、説明する必要もなかった。雑談や相談を2人だけですることが少ないのだから、研究会に連名で発表する時でも別々に出発する事が多かった。N先生の研究発表を聞いて、次にやるべきことを自分で考え、どんどんやっていけば私の方の研究成果が上がっていき、またN先生の方も次のステップへ進むという不思議な関係であった。
 しかし、未経験のものがあまり相談もせず、やっていくのだから、失敗談も数多くある。私の判断や事務的手続きが間違ったために当時のセンター長はじめN先生に大変な迷惑をかけたことがある。責任問題にまで発展し、半年以上の交渉の末ようやく妥協案が見い出されたが、その時でも、N先生は、私を叱らなかった。君の責任問題だともせめられなかった(わたしなら、小言のひとこともいうだろう、激怒して自分で解決しなさいというかもしれない...)。あの心の大きさは、今でも真似ができない。

 数年前にも、こんなことがあった。ある本をN先生が編集することになり私にも執筆の話があった。良い原稿にまとめたいとの気持ちもあり、また、いつもながらの筆無精のために締め切りがすぎても出せなかった。締め切りがすぎて1ヶ月ほどたったある日、私は別の同僚が恩師にしかられているのを聞いてしまった。「締め切りは1ヶ月も過ぎているのに困るじゃないか、私の立場も考えなさい」といった内容である。これは、私も注意されるかなと思ったが、その時はことなきをえた。次の機会は、半年後の研究であった。夜の懇親会の席上で、ある問題が話題になり、有名なM教授が「ところでこのことついては、N先生に頼まれたあの本に書いて提出しておいたんだが、いっこうに出版されませんな」ときた。これは、大変なところに話題がうつった。N先生の弁。「あの本は、まだ原稿を出していない人がいるので、いい原稿に仕上げようと頑張っているのだろうから、もう少し待って下さい。」である。特に、私を見るわけでなく、笑いながら...。そのあとにも、催促や小言はなかった。おそらくN先生に対しては出版社から催促の電話があったろうし、ひょっとしたら締め切りにルーズとN先生の社会的信用を傷つけていたかもしれない。しかし、それを弟子の責任にせず淡々と受け流せる包容力は、いつも見習いたいと思っている。
 私が鳴門へもどってきて、1週間以内に書き上げて送ったのは言うまでもない。その後、原稿の締め切りはできるだけ守るように心掛けている。

 このような自分自身が育てられた体験を通して、私は、人を育て態度を変容させるためには明示的に指導することだけではない方法の方が効果があることを確信した。特に私のような個性の強い人間は、自ら変容しようとする構えが出来るまで待つことが大切であるかを実感している。実際に実行するのは強い精神力を必要とするが、上に立つものの努力は不可欠であろう。

 研究生活20年。まだまだ、学ぶことがある。

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