永野和男
二つ目は、私達がコンピュ−タに情報を大量に詰め込むことができたとしても、その情報を一つ一つ読み出す時間はないという事実である。例えば、先輩や親からこれまで学習してきたノ−トを百科事典のように1Gbyteコピ−して、プレゼントされたとしても、読み始めれば、それだけで一生かかってしまうのである。すなわち、情報は、すでに生身の人間では処理しきれないほど大量であり、もっているだけでは何の価値もない。これを的確に処理し、有効な情報に加工するには、情報処理の機械をうまく使いこなす「知恵」が必要になる。
21世紀には、すでに情報を大量に記憶しておくことは機械の仕事になり、定形的で手続きの明確な仕事の多くはソフトウェア化され、コンピュータに置き換わっているだろう。それでは、人間は仕事をコンピュータにとられてしまうのか。いや、創造性やセンスの要求される分野、高度な情報や多様な情報が必要な分野、価値の相違や全体のバランスで成り立っている領域等は、いつまでも人間の総合的判断力や意思決定が求められる。また、情報化社会ではそのような領域が産業の中心になっていくものと思われる。したがって、人間個人としての価値や能力は、大量の情報を加工して新しい情報を作り出したり、定形的でない方法で新たな問題に対して意思決定を行ったりすることが必要となってくる。ここではコンピュータは、主体的意思のもとで活用されている個人と一体化した道具(情報の収集・加工・検索・伝達等に利用)になるだろう。
ところで、コンピュータは、情報処理のプロセス自身を情報化できる装置である。すなわち、処理の手段や方法をプログラム化して記憶させることにより、ボタン1つで処理を自動化することができる。この場合、コンピュータに仕事を代行させようと考えている人は、処理の手段を論理的に分析し、プログラムとしてコンピュータに教える能力(プログラミング)をつけることで、コンピュータに新しい仕事を支援させることができるようになる。すなわち、情報処理技術者という職種は、情報化社会ではますます必要になることは十分予想される。しかし、すべての国民が新しくコンピュータのソフトを開発することが要求されるようになるわけではない。ものごとを論理的に考え、分析的に見抜く目は、広い意味での情報活用能力であり、これからもますます重要になろうが、そのこととコンピュータ技術者の養成とを同じ問題としてとらえてはならない。
国民の多くは、自動化された機械の利用者側におり、コンピュータが便利になればなるほど、なぜそのように処理され、判断されるのかをまったく疑うこともなく受け入れるようになってしまう危険性がある。そのことに対する警鐘のほうが情報教育においては重要になる。コンピュータは単なる情報処理の機械であり、あらかじめ人間の命令したとおりに順番に機械的に処理する装置にすぎないということを発達段階のどこかで明確に学ばせておくことが重要である。 |
情報教育の終局的な目標は、「コンピュータ技術が進歩し、人間の扱うあらゆる情報がコンピュータを介して、収集、加工、保存、伝達できるような時代がきたとき、人間として情報を適切に扱いうる基本的能力を養うこと」であり、具体的には、「情報をみぬく目」や「情報を処理する知恵」をバランスよくつけることである。コンピュータの活用は、このうち、主として「情報を処理する知恵」の一部に入ると考えられるが、これには、「ここではコンピュータを利用すべきでない」といった判断ができることも含まれている。コンピュータの利用場面を的確に判断できるようにするためには、あらゆる場面の中でコンピュータを利用させ、道具のように使いこなす機会を与えることは、ある段階以後から必要なことではある。しかし、同時に、そのことの意味や影響、補われたものや欠落したものをみぬく目を養うことを忘れてはならない。
コンピュータの利用法の一つに、人間の行っている情報処理過程をモデル化し、情報の入力、加工、出力の手続きも情報化して記憶させ、人間の情報処理を代行させることがある。これは、コンピュータのもっとも広範囲な利用法であり、仕事のルーチン化を促進し、生産性の向上に貢献した。この場合、利用者は、どうしてそのようになるのかを知らなくても、仕事を片付けることができる。すなわち、コンピュータはまったくのブラックボックスになる。しかし、仕事の省力化や、仕事からの開放を願う社会人の場合はよいとしても、これから自らの情報処理能力を育成しようとすべき発達段階の子ども達の場合は、このようなブラックボックスとしてのコンピュータの活用はいかがであろうか。特に小学校段階においては、子ども自身の情報処理能力が十分成育していない段階であり、誤った形でコンピュータを与えると、処理能力、判断力などがかえって育成されないという結果になる場合もあろう。コンピュータの利用を学習の中に位置づけるとすれば、きわめて教育的意図をもってコンピュータと出合わせる必要がある。具体的にコンピュータの活用をした場合に、その子どもの情報処理活動にコンピュータはどのように機能しているのか、情報収集や伝達を支援しているのか、この利用法はどのタイプにあたるのか、ということを、教師ははっきり意識しておかなければならない。情報教育は、具体的な情報処理活動を、手作業によって体験するところから始まる。
しかし、コンピュ−タに数値式ではなく、文字や記号を処理させようとする試みや、コンピュ−タの働きを人間の情報処理過程をモデルにして構成しようとする努力は、コンピュ−タの開発の目標を、単なる計算する機械としてではなく、人間のように知的に情報処理する機械を作ることに変えさせた。すなわち、開発の目標は、人間の情報処理プロセスを代行し、高速に、正確に処理する完全な自動制御装置や知的ロボットの実現に向けられた。
1970年代の後半のマイクロコンピュ−タの出現は、これまでの自動処理機械、計算機といったコンピュ−タのイメ−ジを一変させた。それまでは、コンピュ−タには専用の部屋とオペレータが必要であったが、マイコンは、机上に置くことができるようになった。ハ−ドウェアの小型化とコストの激減が、コンピュ−タを個人で所有できるパ−ソナルなものに変えた。その結果、自動機械としてではなく、個人的に抱えているいろいろな情報処理(例えば、情報の収集、意思決定のためのデ−タ分析、印刷のための編集・出力など)の支援を行うための道具であるという考え方が出てきたのである。
コンピュータがいろいろな分野で、どのような目的で利用されてきたかを調査してみると、このような「仕事の自動化」と「道具としての活用」の2つに大別できる。この2つの分類はコンピュータを導入し、ソフトウェアを開発して実用化した場合に、その後、人間がその仕事にどのようにかかわるかがまったく異なっているという意味で対照的である。
道具としての活用では、コンピュータの導入によって、その仕事はさらに拡大し、多くの場合、従事する人は仕事が楽になるどころか、新しい能力を要求され、かえって困難になることもある。 さらに、音声や映像を扱うことが出来るマルチメディア技術やコンピュータネットワークの普及は、コンピュータを電話に代わる新しいコミュニケーションの道具としての機能を強調している。このように、コンピュータは、時代の進展、社会の発展、技術の発展に即して、その役割が変化してきていることに注意する必要がある。
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データ領域は、処理対象となるデータの記憶される箱であり、数値の場合は、1〜4バイトを1つの区切りとして記憶されている。また、画像などでは、1画面あたり、数kbyte(キロバイト)の領域を占めることになる。
プログラム領域は、データ領域と演算レジスタの間のデータのやりとり、計算、判定と制御をそれぞれ行えるような一つ一つの簡単な機械語の命令として記憶されており、プログラムカウンタの示す番地に従って、順次自動的に処理が実行されていく。ただし、一つ一つの命令を実行する速さは、現在のコンピュータでは、10-6 〜10-8 秒程度であるために、コンピュータは大量の情報処理を高速にこなすようにみえる。このようにコンピュータは、人間の情報処理プロセスをモデルにして開発されてきた。たとえば、人間も、外界から数多くの情報を受け取って、行動や発言として外界へ出力を出すものと考えるならば、さしずめデータ領域は、脳の記憶になり、プログラムは、トレーニングや生活の知恵によってついてきた技能や判断力ということになる。
コンピュータ開発が人間によく似た情報処理をする機械を作ることをめざしてきたこともあって、逆に人間の情報処理過程の研究も、コンピュータをモデルにして考えられるようになってきた。すなわち、心理学でこれまで研究されてきた記憶や知覚、問題解決などの振る舞いを説明するモデルとして「情報処理モデル」は、よく利用される。たとえば、簡単な情報処理モデルでは、目から入ってきた情報は、一旦、作業バッファに蓄積され、シンボル化されて短期記憶に送られる。さらにこれまで蓄積され、ラベル付けされた情報と相互参照されて、長期記憶に蓄積されると考えられている。実際、人間を対象にした多くの記憶の心理学的実験や、問題解決過程の分析から「情報処理モデル」が人間の情報処理過程を都合よく説明できる事実が観察されている。また、このような基礎的研究の成果が、情報をデジタル化したり、コンピュータをより人間らしくふるまわせる機械へと発展させる推進力にもなっている。
今や、コンピュータは、人間の五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)で感じるあらゆる情報を電子的符号化できるようになってきており、臭いや、温度を同時に判断して適切な対処を行うようなロボットや、カメラから入力された信号から物体の位置を認識し、それを取って戻ってくるといった知的な処理をコンピュータに行わせることも可能となってきている。しかし、先に述べたように、コンピュータでは、これらの認識や判断の方法をあらかじめ人間が調査あるいは分析してプログラムとして教えておいたものを、基本命令に展開して順に実行してみせているだけである。
人間は、外界から入力された情報、あるいは自分で獲得した情報をもとに、記憶したり、判断したり、行動をおこしたりする。しかし、このような判断力(コンピュータではプログラムに相当)は、外界とのかかわりの中で絶えずモニターされ、修正が加えられる。はじめは親や先生に教えられたとおり行動したとしても、失敗したり不都合が生じると、自らこれを改善しようと試みる。これが、自己学習力である。自己学習力は、コンピュータでいえば、外界の反応に従って、自分自身で自分のプログラムを改善することに相当するが、残念ながら、現在のコンピュータには疑似的な学習機能(学習する方法をプログラムとしてあらかじめ記憶させることで、どんどん知的に対処するようにする)をもたせることはできても、本質的な意味での学習機能はない。この点が、コンピュータと人間との本質的な違いである。 |
学習の中に子ども自身が疑問をもったり、試みたり、考えたり、失敗を自覚したりするプロセスが含まれていなければ情報教育としてみた場合には意味がない。 教材がいくら美しく仕上げてあっても、子どもの興味は、すべての情報をあけてみるだけの単なるモグラたたきゲームになり下がってしまう。情報教育のための学習ソフトは、このような子どもの頭の中で起こる学習プロセスのことを良く配慮し、開発されなければならない。 |
情報教育の立場からのコンピュータの利用の留意点は次のようになる。
(1)コンピュータが、子どもが行うべき情報処理活動のすべて(特に、選択・判断の部分)を代行してしまわないようにすること。すなわち、情報の収集過程、加工過程、保存、伝達過程などを過程別に支援するような利用を考える(コンピュータの道具的利用と呼ぶ)。
(2)コンピュータの利用が、自らの情報処理のプロセスを確認する鏡になるように利用する。仮説を立てたり、検証したり、情報の種類や量を確認したり、プロセスそのものを再実行したり、図式表示する(コンピュータの鏡的利用と呼ぶ)。プログラミング演習は、この中に入る。
(3)コンピュータがすべてのプロセスを代行してしまう場合には、そのメカニズムや方法、意味についての学習が、すでに他の教科で十分行われていること。もし、そうでない場合でも、ブラックボックスの部分が子どもの興味をかきたて、そのしくみを知ろうと働きかける要因が含まれていること。
情報活用能力は、特定の教科だけで育成できるものではない。あらゆる教科を通して機会あるごとに情報の収集、加工、判断、伝達のプロセスを体験させて徐々に形づくられていくものなのである。情報活用能力は「判断力」あるいは「問題解決能力」の一種で、いわゆる態度変容として身についてくるものであり、1、2時間のトレーニングで効果の上がるものではない。また、このような能力(総合判断力)は、それを構成している要素を全部ばらばらに分解して一つ一つ訓練したり、その原理を解明して教え込むだけでは育成できない。
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学習が受け身的ではなく、主体的な課題意識の中で行われることは、情報教育にかかわらず重要なことである。 しかし、情報教育では、「自らの判断力をつける」、「自分の情報処理特性を知り、それを拡大する」という意味において、子ども自身が学習課題を自分の問題としてとらえ、自ら試みることが特に大切になる。教師は、どんな小さな興味でも、その児童にとって意味があるものを取り上げ、発展させて学習課題に仕立てあげるよう考えなければならない。 |
しかし、より自然なのは、コンピュータ室に設置するもののうち、数台を必要に応じて教室や理科室、資料室などに移動し、いろいろな目的に利用できるようにすることである。情報基礎の演習のためのコンピュータは、演習に必要なソフトが動く必要最小限のコンピュータにし、残った予算で、移動可能なノート型パソコンとCRTディスプレイ、職員室用に大容量のファイルをもった高機能のパソコンを設置するのも一方法である。道具としてのコンピュータは、必要な場所にいつでも利用できる形で置いておかなければ、使い勝手が悪い。
サーバ型のネットワークを張ってファイル管理を一元化したり(1台当りのディスクを最小にでき、管理も容易)、プリンターサーバーを入れプリンタの台数を抑えたり(演習時にプリント出力を許さない)すれば、同じ価格でも驚くほど柔軟で実用的な構成が可能になる。コンピュータ利用を、(1)実習用、(2)事務処理用、(3)教務や教材作成用、(4)演示用、(5)日常の教科で活用する道具、などに利用目的を分類し、コンピュータ実習用、移動可能な単機能のもの、本格的なシステムなどに機能を区別して、必要な場所に計画的に導入するほうが結果的に得策になろう。
筆者は、コンピュータの子どもへの開放に成功している小学校をいくつか知っている。これらの学校もはじめは、コンピュータをコンピュータ室に配置し、子どもをその教室に移動させて利用していた。しかし、数年の経験で、この方法では日常的な学習場面で主体的に活用させることは困難であることがわかってきた。結果、コンピュータは教室の間のオープンスペースに移動され、いろいろなコーナーに置かれるようになってきた。機器の導入時期が異なったため、ハードの種類もいろいろで、データベースソフトが動くものもあれば、測定器につながっているもの、パソコン通信で電話につながっているものもある。
子ども達は、必要なときに、コンピュータを教室に持ち込んで来たり、オープンスペースに行ってグループで調べたりして課題解決に主体的に利用するようになった。しかし、これは単に配置だけの問題ではなく、教師のグループは、機器の配置、学習課題の設定、ソフトウェア、利用のルール作りなど十分に時間をかけて準備し、学校全体として協力して仕掛けを作ってきていることも事実である。コンピュータの導入とはハードウェアを購入することではない。ソフトやハードの配置の仕方、学習での利用の仕方、教師のかかわり方を十分に考慮して活用すれば、同じコンピュータでも、創造性を高めたり情報活用能力を育成する道具に発展させることができるのである。
これまで論じてきたところから、学校教育における「情報教育」で重要と考える点をまとめてみる。
1.情報教育では、子ども達が、与えられた課題を自分の問題としてとらえ場面の中で体験的に学習しなければならない。「情報を処理する能力」ができるとは、例えていえば、「自分の頭の中に自分で処理方法のプログラムを作る」ということである。教師の仕事は「自分で問題をとらえてくれるように、あるいは、自分で自分の情報処理活動をモニターするような場面を意識的に学習場面の中に作りだしてやる」ことである。2.情報処理活動を意識化させるためには、問題解決に「必要な情報」と「道具」をさりげなく用意する必要がある。もちろん、子どもが利用できるような環境を用意して、ちょっとした道具の使い方を教師自身が示すことが必要である。しかし、子供にそれをまねするよう指示したら失敗である。道具の使い方を明示すれば、学習者はすぐ受け身になり、処理方法は単に知識として伝達されるだけで問題解決能力にはつながらない。技術として体得するためには子ども自らが失敗しながら自分で評価し、自ら修正して学ぶように工夫する必要がある。
従来、教育工学的手法においては、目標を明確にすることが第1段階の作業であった。しかも、この目標は、達成したことが測定可能な行動目標で記述されることが求められた。これは、授業の実施後、設計を改善するためには、目標が達成していたかどうか実証的に評価されなければならなかったからである。しかし、最近の教育工学研究者の研究成果によっていくつかの新しい視点が指摘されてきている。たとえば、教師が授業設計を行う場合には必ずしも、目標から考えるわけではないという指摘である。これらの視点として、教師のねがい、目標、学習者の実態、教授方略、教材、学習環境や条件 などがあげられている。
ところで、情報教育の目標のように、個人の判断力の育成のような長期的展望をもった目標の場合はどのように考えればよいのであろうか。このような教育は、いわゆる内的な変容をねらったものであり、1時間のトレーニングで効果の上がるものではない。情報教育の目標は、先にも述べたように「コンピュータの技術が発展し、本格的な情報化社会がきたとき、扱われている情報そのものの信頼性を自分で判断できたり、あるいはどうすれば、その情報が自分の問題解決に使えるかという知恵をもつこと」である。これは、「判断力」あるいは「問題解決能力」といったもので、広い意味での「技術」ということになる。「判断力」育成のカリキュラムは、それを構成している要素を全部ばらばらに分解して一つ一つ訓練したり、その原理を解明して教え込むだけでは、育成できない。これらを支えているのは、「知識」と、「技能」に加えて、「場面認知力」であろう。必要場面で、自分が今まで経験してきたものをうまく引き出して、それを適用することができる、そういう能力は、「体が覚える」ほど、同じような場面で幾度も試行錯誤を繰り返してはじめて体得できるものである。
したがって、それは日常の授業であらゆる学習場面において体験的に繰り返して少しずつ進めるしかない。しかも、子ども自身が自分の問題としてとらえ、自ら試みることが大切になる。教師は一例を示したとしても、これを知識として、教え込もうとすると失敗する。教師の一例はあくまでも一つの例示にすぎないことをうまく伝達する必要がある。筆者は、情報教育の実践において重要な視点として(1)主体的課題意識、(2)試行錯誤、(3)意図的にデザインされた道具、(4)問題解決に必要な情報の準備、(5)自己による評価、再試行、(6)パートナー、カウンセラーとしての教師 の6点をあげた。
教育工学は、設計-実施-評価という授業改善手法を提唱している。そこで強調されてきたのが、行動目標主義である。行動目標主義では、目標を具体的に測定できる学習項目として記述する。もし、直接の学習項目が測定できなければ、この目標が達成されれば、こういう行動を起こすであろうと予測し、これを行動目標として記述する。しかし、このような行動目標が一旦具体的な達成目標として明示されると、カリキュラムは行動を起こすように起こすようにと短絡的に変更されていく。教師は、測定できる行動を起こしやすい環境を作ろうとし、教師の期待する目標を察知した子どもは、直接的に行動を示するように振る舞い始める。情報教育を進めていくためには評価の問題は不可欠であるが、結果を急ぐあまり、もともと、自発的な、主体的なかかわりでとらえられるべき情報教育の目標が、評価のシステムを加えたことによって、単なる知識や技術のトレーニングに終ってしまう危険性をもつ。
このようなことをさけるためには、情報教育の評価においては別の観点を考え出さなければならない。
情報教育が成功するかどうかは、コンピュータの導入状況や教師の操作能力の問題ではなく、むしろこのような、「学習観の変容」や、「意識の変革」に教師がついていけるかどうかにかかっている。
(パソコン活用大百科 1994年版 実教出版,P92-103より転載)