EDDY-osとわたし
あるいはEDDY-osの史的考察
四国大学 家政学部
奥村 英樹
I. EDDY-osとの出会い
これまで永野研究室で開発されてきた一連の教材開発支援システムに「EDDY-os」という名前が付けられたのは、おそらく吉谷先生(現在は富岡西高等学校)が開発された「EDDY-os SONYバージョン」からであろう。しかし、その基本構想は既に永野先生が京都教育大学にいらっしゃった時からあったと推測される。
当時京都教育大学の教育実践研究指導センターでは西之園先生(現在は鳴門教育大学)と永野先生による教材開発支援システム「CALマスター」の開発が企画されていた*1。そして、その時のソフトの完成イメージについての永野先生の説明が、「常にシステム側からアドバイスを受けながら教材が開発できる」「教材を構成する画面やメッセージを選ぶ」というものだったからである(これは後述するEDDY-os SONYバージョンで実現されている)。
残念ながら、当時のパソコン(初期のFM-77)のBASICによる開発の限界*2や、携わった私の技術力のなさから途中段階で別の仕様となってしまったが、今にして思えば、あれが永野先生の「EDDY-os構想」との出会いだったのである。
II. EDDY-os SONYバージョンの開発
私が学部の4年に上がる年に、永野先生は鳴門教育大学に移られた。そしてその年に、記念すべきEDDY-os第1号が当時の修論生である吉谷先生によってSONYのSMC-70Gという機種の上で開発されたのである。入力装置にはタッチパネルが使われ、レーザーディスクと連動したスーパーインポーズの利用も実現していた。
私が初めてEDDY-osを見たのは、夏休みを利用して三尾君(現在は放送教育開発センター)らとともに永野先生のところに遊びに行った時であった。デモとして、皿の上のリンゴを移動させる教材や、道路での自転車の位置を指導する教材を見せていただいたのを覚えている。当時の私が最も感動したのは、タッチパネル等の新しいインターフェースに加えて、画像の呼び出しや確認にファイル名ではなく絵そのものが直接選べるようになっていたところであった。
*永野先生ところに遊びに行ったその年の秋に、京都教育大学の実践センターに1台のパソコンが届いた。栄光のMZ-2500 *3である。当初は三尾君がEDDY-osで利用するメッセージ管理モジュールを開発していた。当時の私はCALマスターの開発作業のこともあり、横目で「面白そうなパソコンだな」と思いながらも触ることはなかった。学部卒業後の2年間、それにどっぷり浸る生活になるとは予想だにせず...
III. EDDY-osMZ-2500バージョンの開発
鳴門教育大学の大学院に進学して、私が開発担当となったのがEDDY-osのMZ-2500バージョンだった。シャープさんの好意で既存のお絵かきソフトのモジュールが流用できたり、EDDY-osの基本モジュールがほとんど移植されかけているなど、全くゼロからのスタートでないことが何よりも有り難かった。
とはいうものの、お絵かき部分のメニューの追加やイメージスキャナの制御、シール機能の実現などやるべきことは数多くあった*4。
開発したソフトは、現場の先生向けの講習会等で実際に利用され、評価していただいた。演習に際しては、事前に自学自習用のテキストを作ったりするなど、ソフト開発以外の作業も結構あったのを覚えている。自分のプログラムしたソフトが利用されることに充実感はあったが、演習中は「いつバグが出るか」冷や汗ものだったのを覚えている。そして事実、大抵は何度かハングアップして多くの先生にご迷惑をおかけした*5。
この他、近藤さん(現在は大阪教育大学)にも修論の研究として英語の教材開発に利用していただいた。
IV. MZ-2500バージョン開発の周辺
EDDY-os開発とともに、それらのモジュールを利用して他のソフトもいくつか開発することが出来た。
中川先生(現在は川井小学校)の修論に利用していただいた絵本作成ソフトは、EDDY-osのモジュールをフルに活用した教材ソフトであった。特にお絵かきの場面では、現在のKidPixのスタンプ機能と同じように、シール絵が利用できるようになっていた。実践は当時藍住南小学校で教鞭をとっておられた渡辺先生(現在は福井南小学校)の学級で行われた。永野先生と院生の何名かがビデオ機材やパソコンを大挙して運び込んで記録をとるなど、結構大がかりだったのを覚えている*6。
その他、表の中にシンボル型のデータを取り込んだ子供用マルチプランや、MZ-2500に内蔵されたテープレコーダを制御した九九練習のソフトなども開発した。
V. EDDY-osMZ-2500新バージョンの開発
私が大学院を修了する頃から、今度は上田先生(現在は堀江北小学校)による新バージョンの開発・研究が開始された。VTRやビデオフォトを制御し、スーパーインポーズによってコンピュータ画面との混在を可能にしたものであった。
大学院の修了後は福武書店のニューメディア研究所でLogo教材の開発に従事したため、その間の3年間、私自身はEDDY-osから遠ざかることになった。途中、永野先生の好意で東京までマシンを送っていただき、上田先生が開発されたEDDY-osのチェック等をすることもあったが、ビデオ機材の接続ができないこともあって十分なお役にはたてなかった。
VI. EDDY-osDOSバージョンの開発
3年後、現在の四国大学(当時は四国女子大学)に再就職し徳島に戻ってきた私は、新しいPREBASの開発*7とともにDOSマシン上での新EDDY-osの開発を始めることとなった。この頃は、DOSマシン上ではWINDOWSがゆっくりとした足どりではあったが普及しはじめていた。
DOSバージョンのEDDY-osは、これまでの方式(システムとの対話による教材開発)を一新し、MACと同じようなプルダウンメニューに変更された。また、インターフェースモジュールという概念を採用し、EDDY-osはオーサリングソフトとしてだけでなく、PREBASで教材を作るときのインターフェース設計の役割までも担うようになった。つまり、EDDY-osで作成されたデータがPREBAS上から制御可能になったのである。また、複数のDOSマシン上でのデータ互換と独自のインターフェース作法を持ったウィンドウ制御を、WINDOWSのように大量のメモリとディスク容量を消費することなく実現する試みも行われた*8。
VII. DOSバージョン開発の周辺
DOSバージョンもまた、演習だけでなくいくつかの実践的な教材開発に利用された。飯田先生(現在は藍住南小学校)の障害児教育用神経衰弱ソフトや濱田先生(現在は安芸高等学校)の生活シミュレーション「K子のひとりだち」である。2つとも最初は画面のデザインをEDDY-os上で行い、それからPREBASでインターフェースモジュールを制御してソフトの開発が行われた。
VIII. ひと昔を振り返って1(EDDY-osと世の中の状況の変化)
以上のような経緯をふりかえってみると、教材開発支援ソフトに要求される事柄がひと昔でかなり変わってきたと言える。
1. 学校現場へのコンピュータの急速な普及
新指導要領からコンピュータの教育利用が正式に位置づけられたため、ここ数年でパソコンやワープロの操作経験を持つ先生の数が急速に増えてきた。従来はコンピュータを初めて見たり、操作する先生が対象であったが、最近はワープロ等の操作経験を持つ、あるいは展示会等で見たり触ったりしたことのある先生が対象になってきたのである。
そのため、EDDY-osの仕様もDOSバージョンでは従来の対話形式重視のものから、より自由度の高いメニュー選択形式のものへと変化した。
2. コンピュータ技術の高度化
EDDY-osMZ-2500バージョンの開発は16色・400ライン表示で行われた。この時に利用できた教材の部品(素材)は文章や図形、イメージスキャナで取り込んだ16色の画像が中心であった。ビデオ映像等も利用はできるが、再生されるまでに時間がかかったり、表示サイズが固定でありかなりの制約を受けていた。
現在では、256色以上の色数を利用した文字や図形・画像だけでなく、音声やビデオ映像もデジタルデータとしてパソコン上で自由に再現することが可能となってきている。再生時間や表示サイズも気にしなくてよく、しかもVTRのような特別な外部機器を必要としなくなっている。
*ただし、DOSバージョンでは旧来のビジネス用パソコン(16ビット、16色表示、メモリ640KB)を想定していたため、まだマルチメディア対応とはなっていない。
3. 学習へのコンピュータ利用の変化
コンピュータ技術の高度化に対して、教材ソフト自体は内容の高度化がはかられたというよりは、教材ソフトの種類そのものが変わってきたという印象が強い。10年前の学会発表では教材開発支援システムの研究が非常に多く、チュートリアル型やドリル型の教材ソフトの研究もかなり見られたが、現在では情報教育を前提とした道具的な教材ソフトが多くなってきたように思われる。
4. 素材を蓄積することについて
現在でこそ、さまざまな画像集がCD-ROMで販売されるようになってきたが、ひと昔前に多くの研究機関で開発されてきた教材作成ソフトには素材の蓄積を前提としていたものが少なかったように思われる。一連のEDDY-os構想では、私が大学時代に受けた説明の時から、あらかじめ蓄積された画像や文章を組み合わせることによる開発が想定されており、10年目にして回りの意識やハードの能力がこの構想に追いついてきたような感が否めない。
IX. ひと昔を振り返って2(EDDY-os開発で奥村は何を認識したか)
EDDY-osの開発によって、私はソフトやテキスト開発の技術だけでなく、いくつかの重要な考え方について認識できたと思う。ただし、これらは認識できたというレベルであって、それが実際の行動に現れているとは言いがたい。
1. ソフト開発の専門家と違う土俵で勝負する
この10年間、私は多くの時間をプログラム開発に費やしてきた。しかし、どれだけやっても素人は素人である。プログラムを生業としている人の足下にはとうてい及ばない。
10年前は、教材ソフト関係の会社の多くはドリル型や、インターフェース等が教育的でない?教材ソフトを開発していたように思われる。しかし、最近では学習の道具としての教材ソフトの開発が多くなり、良いソフトもかなり増えてきた。また、WINDOWSなど基本的な機能を司る部分についてもかなり良くなってきたと考えられる。
彼らと同じ土俵で勝負すれば当然こちらに勝ち目がない。研究者、教育者として活躍できる土俵というものを自分なりに考えて行かなくてはならない。
2. 半歩先を考える
EDDY-osでは、(私はあまり理解していなかったが)世の中の1歩先を予見した上での仕様が示されていたように思える。例えばHyperCardが日本で有名になる前にEDDY-osのSONYバージョンでは同じような機能が完成されていたり、素材の蓄積を重視した考え方なども今から思えば5年は先を走っていたように思われる。
多くの研究者や教育者が注目を集めているホットな話題に対して、どれだけ先を予見できるかが重要であることはこれまでのソフト開発で十分に認識できたつもりである。ただし、問題はそれが行動に移せるかどうかなので、せめて半歩先を考えるよう努力することから始めたい。
3. アイデアを最後まで実現させることが重要である
永野先生の多くのアイデアに対して、私自身の技術力のなさから最後まで実現できなかったことが数多く存在する。例えばMZ-2500にハードディスクを接続し、ネットワーク上から利用することも、院生時代の私に与えられた課題であったが、結局はほとんど手つかずとなってしまった。
アイデアは最後まで実現し、その成果を文章化することが重要であり、中途半端のまま放置したのではアイデアそのものが存在しなかったのと同じであるということも、この10年間の反省とともに私が学んだことの1つである。
X. 最後に
この10年を振り返ることによって、自分自身がどれだけ意義のあることに関われたのか、また、これからどのように研究や開発を進めていくべきかを考え直すことができました。末筆ながら、 このような場を与えて下さった永野先生と歴代の研究室の方々に深く感謝したいと思います。
注)
*1 開発の中心的な作業は同期の三尾君(後に鳴門教育大学へ共に進学)とともに行った。
*2 FM-77は8色の200ライン表示で利用していた。BASICだけでなく、Logo言語も使えるマシンであった。今では当たり前の、BASICプログラム中への漢字の記入はできず、メッセージの表示には直接漢字コードを書いていた。
*3 未だに一部?で名機だったとささやかれるほど、当時では画期的なパソコンであった。400ライン表示で16色が十分に使え、何よりも漢字変換機能を備えておりBASICのプログラム中に漢字が直接書き込めた。また、カセットテープを内蔵しておりBASIC上からの制御も可能であった。更に、スーパーインポーズやきれいな音色が出せた。
*4 当時から開発で重要なことは、画面のデザイン(見え方)であった。配色やメニューの表示の仕方、ウィンドウの陰の付け方などについては、一回で永野先生のOKがでることは希であった。
*5 自分のプログラムが演習に利用されている間は、非常にスリルがあったとも言える。最初はおっかなびっくりであったが、EDDY-os以外のものも含めて何度も経験すると、そのうちにそれが快感になってくるから恐ろしい。
*6 この時も、私はマシンを1台占有して、バグが出たときの対応に備えていた。ちなみに、実践に利用された絵本は、三宮先生によって描かれたものである。
*7 PREBAS(プリバス:構造化されたBASIC言語)の歴史も古く、その根元は永野先生が京都教育大学にいらっしゃったときに開発されたFORTRAN用の構造化言語SIFT(シフト)にまで遡る。
*8 DOSマシン上での開発は、これまでの中で最も苦しいものであったと言える。というのは、MZ-2500のBASICではグラフィックス制御のコマンドが結構充実していたのに対して、DOSマシンのそれはかなり貧弱だったからである。
(おくむら ひでき 1987年度修了生)
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