情報教育とは何か

永野和男

これからの社会に必要な能力

 情報教育の方向性を探る場合に、コンピュータ技術の動向や社会の変革の方向を予測しておくことはきわめて重要である。なぜなら、「情報教育」で考えているような教育効果は、今の小学生や中学生が社会人になったとき、初めて評価されるようになるからである。技術的予測では、コンピュータの技術革新はさらに進み、おそらくは、10年もかからないうちに1cm以下のうすさの、数G byte以上の記憶容量を持つ携帯用のコンピュータを誰でもがもち歩ける時代がくると考えられる。また、情報ネットワーク網が整備され、テキスト情報はもちろん、画像や写真、簡単なアニメなどの映像なども、通信手段によって必要に応じて手元で検索・受信できるようになろう。数G byteといえば、読書量の多い人が一生かかって読む文字の数(10の9乗文字程度といわれている)よりも多いわけであるから、個人は、出力してみても全部に目を通すことができないほど大量の情報を持ち歩くことになる。このことは、教育上2つの意味をもつ。その一つは、情報を効率よく大量に頭の中に記憶しておくことは、人間にとって必要不可欠な要件ではなくなるという事実である。将来は、各自のノ−トやメモの代わりに脳の記憶を補う装置として、時計やメガネのようにコンピュ−タを肌身離さず持ち歩くことが常識になり、コンピュ−タの利用を含めてしか人間の能力の評価を行うことが考えられない時代がくる。従って、学習の目標や評価においても記憶のみが重視されてきたこれまでの学習観が変わらざるをえない。

 二つ目は、私達がコンピュ−タに情報を大量に詰め込むことができたとしても、その情報を一つ一つ読み出す時間はないという事実である。例えば、先輩や親からこれまで学習してきたノ−トを百科事典のように1Gbyteコピ−して、プレゼントされたとしても、読み始めれば、それだけで一生かかってしまうのである。すなわち、情報は、すでに生身の人間では処理しきれないほど大量であり、もっているだけでは何の価値もない。これを的確に処理し、有効な情報に加工するには、情報処理の機械をうまく使いこなす「知恵」が必要になる。

 21世紀には、すでに情報を大量に記憶しておくことは機械の仕事になり、定形的で手続きの明確な仕事の多くはソフトウェア化され、コンピュータに置き換わっているだろう。それでは、人間は仕事をコンピュータにとられてしまうのか。いや、創造性やセンスの要求される分野、高度な情報や多様な情報が必要な分野、価値の相違や全体のバランスで成り立っている領域等は、いつまでも人間の総合的判断力や意思決定が求められる。また、情報化社会ではそのような領域が産業の中心になっていくものと思われる。したがって、人間個人としての価値や能力は、大量の情報を加工して新しい情報を作り出したり、定形的でない方法で新たな問題に対して意思決定を行ったりすることが必要となってくる。ここではコンピュータは、主体的意思のもとで活用されている個人と一体化した道具(情報の収集・加工・検索・伝達等に利用)になるだろう。

 ところで、コンピュータは、情報処理のプロセス自身を情報化できる装置である。すなわち、処理の手段や方法をプログラム化して記憶させることにより、ボタン1つで処理を自動化することができる。この場合、コンピュータに仕事を代行させようと考えている人は、処理の手段を論理的に分析し、プログラムとしてコンピュータに教える能力(プログラミング)をつけることで、コンピュータに新しい仕事を支援させることができるようになる。すなわち、情報処理技術者という職種は、情報化社会ではますます必要になることは十分予想される。しかし、すべての国民が新しくコンピュータのソフトを開発することが要求されるようになるわけではない。ものごとを論理的に考え、分析的に見抜く目は、広い意味での情報活用能力であり、これからもますます重要になろうが、そのこととコンピュータ技術者の養成とを同じ問題としてとらえてはならない。
 国民の多くは、自動化された機械の利用者側におり、コンピュータが便利になればなるほど、なぜそのように処理され、判断されるのかをまったく疑うこともなく受け入れるようになってしまう危険性がある。そのことに対する警鐘のほうが情報教育においては重要になる。コンピュータは単なる情報処理の機械であり、あらかじめ人間の命令したとおりに順番に機械的に処理する装置にすぎないということを発達段階のどこかで明確に学ばせておくことが重要である。

情報教育にコンピュータは不可欠か

 多くの教師は、この質問そのものがナンセンスであると思うであろう。すなわち、情報教育はコンピュータ教育であり、コンピュータの利用は不可欠に決まっていると。しかし、筆者の考えは、少し異なる。情報教育は、人間としての情報処理能力の強化・育成のための教育であり、ある時期(特に幼児期、小学校の低学年において、自分自身の情報処理活動の基礎づけができていなかったり、対象化できない段階)には、コンピュータの誤った利用は、かえって情報処理能力の育成をさまたげる。

 情報教育の終局的な目標は、「コンピュータ技術が進歩し、人間の扱うあらゆる情報がコンピュータを介して、収集、加工、保存、伝達できるような時代がきたとき、人間として情報を適切に扱いうる基本的能力を養うこと」であり、具体的には、「情報をみぬく目」や「情報を処理する知恵」をバランスよくつけることである。コンピュータの活用は、このうち、主として「情報を処理する知恵」の一部に入ると考えられるが、これには、「ここではコンピュータを利用すべきでない」といった判断ができることも含まれている。コンピュータの利用場面を的確に判断できるようにするためには、あらゆる場面の中でコンピュータを利用させ、道具のように使いこなす機会を与えることは、ある段階以後から必要なことではある。しかし、同時に、そのことの意味や影響、補われたものや欠落したものをみぬく目を養うことを忘れてはならない。

 コンピュータの利用法の一つに、人間の行っている情報処理過程をモデル化し、情報の入力、加工、出力の手続きも情報化して記憶させ、人間の情報処理を代行させることがある。これは、コンピュータのもっとも広範囲な利用法であり、仕事のルーチン化を促進し、生産性の向上に貢献した。この場合、利用者は、どうしてそのようになるのかを知らなくても、仕事を片付けることができる。すなわち、コンピュータはまったくのブラックボックスになる。しかし、仕事の省力化や、仕事からの開放を願う社会人の場合はよいとしても、これから自らの情報処理能力を育成しようとすべき発達段階の子ども達の場合は、このようなブラックボックスとしてのコンピュータの活用はいかがであろうか。特に小学校段階においては、子ども自身の情報処理能力が十分成育していない段階であり、誤った形でコンピュータを与えると、処理能力、判断力などがかえって育成されないという結果になる場合もあろう。コンピュータの利用を学習の中に位置づけるとすれば、きわめて教育的意図をもってコンピュータと出合わせる必要がある。具体的にコンピュータの活用をした場合に、その子どもの情報処理活動にコンピュータはどのように機能しているのか、情報収集や伝達を支援しているのか、この利用法はどのタイプにあたるのか、ということを、教師ははっきり意識しておかなければならない。情報教育は、具体的な情報処理活動を、手作業によって体験するところから始まる。

コンピュータはどんな役割を果たしてきたか

 コンピュ−タがどのような学習に生かせるかを考えるためには、コンピュ−タがどのように人間とかかわってきたかを、もう一度思い返す必要がある。
 コンピュ−タは、はじめ、人間が行っている数値計算という仕事を自動的に処理する機械として考案された。初期のコンピュ−タの開発の目的は、たとえば、数学の数値表を正確に幾桁も算出したり、弾道の軌跡を正確に算出することであった。コンピュ−タに電子計算機という訳語が与えられたのも、計算をする機械としてのイメ−ジが強かったからであろう。

 しかし、コンピュ−タに数値式ではなく、文字や記号を処理させようとする試みや、コンピュ−タの働きを人間の情報処理過程をモデルにして構成しようとする努力は、コンピュ−タの開発の目標を、単なる計算する機械としてではなく、人間のように知的に情報処理する機械を作ることに変えさせた。すなわち、開発の目標は、人間の情報処理プロセスを代行し、高速に、正確に処理する完全な自動制御装置や知的ロボットの実現に向けられた。

 1970年代の後半のマイクロコンピュ−タの出現は、これまでの自動処理機械、計算機といったコンピュ−タのイメ−ジを一変させた。それまでは、コンピュ−タには専用の部屋とオペレータが必要であったが、マイコンは、机上に置くことができるようになった。ハ−ドウェアの小型化とコストの激減が、コンピュ−タを個人で所有できるパ−ソナルなものに変えた。その結果、自動機械としてではなく、個人的に抱えているいろいろな情報処理(例えば、情報の収集、意思決定のためのデ−タ分析、印刷のための編集・出力など)の支援を行うための道具であるという考え方が出てきたのである。

 コンピュータがいろいろな分野で、どのような目的で利用されてきたかを調査してみると、このような「仕事の自動化」と「道具としての活用」の2つに大別できる。この2つの分類はコンピュータを導入し、ソフトウェアを開発して実用化した場合に、その後、人間がその仕事にどのようにかかわるかがまったく異なっているという意味で対照的である。

■仕事の自動化、仕事の機械化

 「仕事の自動化」は仕事そのものを機械に代行させることを目的としているため、コンピュータの導入後はその仕事はしだいにコンピュータが行うようになり、人間はその仕事から開放される。仕事の自動化を、技術的にも社会的にも成功させるためには、その仕事が、(1)誰がやっても同じ結果が得られること.(2)人間より機械が行うほうが正確であり、安全である(もともと人間がすべきことでない).(3)処理の手順が明確であり論理的に説明できる.などの条件を満たすことが必要である。ここでは、コンピュータが大量のデータを高速にしかも定形的に処理するという特性が注目されている。人間が行ってきた仕事の手順をコンピュータに記憶させ代行させるという発想は、コンピュータが利用され始めた初期の段階から採用され、多くの分野で活用されている。
 例えば、我国の工業技術を支えているFA(ファクトリーオートメーションの略)の技術は、熟練工の技術をロボット化することによって、精巧で品質の揃った製品を大量に作り出すことに成功した。また、OA(オフィスオートメーションの略)に代表される事務処理の機械化は、これまで事務部門の行ってきた発注、在庫管理計算、転記などの仕事を一つのシステムとして統合し、効率よく正確に、迅速に行おうとする試みである。このように、これまでのコンピュータ利用は、仕事を人間が行う場合の不正確、非効率、不合理を補う目的で着手され、コンピュータの特長は逆に正確、効率的、合理的なものもとして定着してきたのである。

■道具としての活用

 これに対して、「道具としての活用」という別の発想は、人間の果たす役割がかなり異なる。「道具としての活用」では、仕事の主体は最後まで人間にある。人間の知的活動は全て情報処理活動である。しかし、人間の情報処理能力には限界や弱点があり、情報処理の範囲は限定されることになる。例えば、資料を調べるといっても、1時間に目を通せる書類の数は限られているし、グラフに書き出したり、遠方の人と情報交換するといっても時間的、空間的制約を受ける。コンピュータを道具として位置付けるという発想は、このような人間の情報処理、すなわち、情報の収集、加工、表現、転送の全てにおいて、人間だけの能力を遥かにこえる情報を扱えるようにコンピュータに支援させることを目的としている。

 道具としての活用では、コンピュータの導入によって、その仕事はさらに拡大し、多くの場合、従事する人は仕事が楽になるどころか、新しい能力を要求され、かえって困難になることもある。
 さらに、音声や映像を扱うことが出来るマルチメディア技術やコンピュータネットワークの普及は、コンピュータを電話に代わる新しいコミュニケーションの道具としての機能を強調している。このように、コンピュータは、時代の進展、社会の発展、技術の発展に即して、その役割が変化してきていることに注意する必要がある。


コンピュータのモデルと学習のモデル

 コンピュータの基本的な機能として、(1)入力(2)記憶(3)演算(4)出力(5)制御の5つの機能がある。一般に、コンピュータはこれら5つの機能に対応する装置をもっている。これらは、人間の目や手、頭脳に対比して考えられる。すなわち、コンピュータは、入力装置から情報を読み取り、出力装置に結果を書き出すわけであるが、このときコンピュータの中はおよそ次のようになっている。

 データ領域は、処理対象となるデータの記憶される箱であり、数値の場合は、1〜4バイトを1つの区切りとして記憶されている。また、画像などでは、1画面あたり、数kbyte(キロバイト)の領域を占めることになる。

 プログラム領域は、データ領域と演算レジスタの間のデータのやりとり、計算、判定と制御をそれぞれ行えるような一つ一つの簡単な機械語の命令として記憶されており、プログラムカウンタの示す番地に従って、順次自動的に処理が実行されていく。ただし、一つ一つの命令を実行する速さは、現在のコンピュータでは、10-6 〜10-8 秒程度であるために、コンピュータは大量の情報処理を高速にこなすようにみえる。このようにコンピュータは、人間の情報処理プロセスをモデルにして開発されてきた。たとえば、人間も、外界から数多くの情報を受け取って、行動や発言として外界へ出力を出すものと考えるならば、さしずめデータ領域は、脳の記憶になり、プログラムは、トレーニングや生活の知恵によってついてきた技能や判断力ということになる。

 コンピュータ開発が人間によく似た情報処理をする機械を作ることをめざしてきたこともあって、逆に人間の情報処理過程の研究も、コンピュータをモデルにして考えられるようになってきた。すなわち、心理学でこれまで研究されてきた記憶や知覚、問題解決などの振る舞いを説明するモデルとして「情報処理モデル」は、よく利用される。たとえば、簡単な情報処理モデルでは、目から入ってきた情報は、一旦、作業バッファに蓄積され、シンボル化されて短期記憶に送られる。さらにこれまで蓄積され、ラベル付けされた情報と相互参照されて、長期記憶に蓄積されると考えられている。実際、人間を対象にした多くの記憶の心理学的実験や、問題解決過程の分析から「情報処理モデル」が人間の情報処理過程を都合よく説明できる事実が観察されている。また、このような基礎的研究の成果が、情報をデジタル化したり、コンピュータをより人間らしくふるまわせる機械へと発展させる推進力にもなっている。

 今や、コンピュータは、人間の五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)で感じるあらゆる情報を電子的符号化できるようになってきており、臭いや、温度を同時に判断して適切な対処を行うようなロボットや、カメラから入力された信号から物体の位置を認識し、それを取って戻ってくるといった知的な処理をコンピュータに行わせることも可能となってきている。しかし、先に述べたように、コンピュータでは、これらの認識や判断の方法をあらかじめ人間が調査あるいは分析してプログラムとして教えておいたものを、基本命令に展開して順に実行してみせているだけである。

 人間は、外界から入力された情報、あるいは自分で獲得した情報をもとに、記憶したり、判断したり、行動をおこしたりする。しかし、このような判断力(コンピュータではプログラムに相当)は、外界とのかかわりの中で絶えずモニターされ、修正が加えられる。はじめは親や先生に教えられたとおり行動したとしても、失敗したり不都合が生じると、自らこれを改善しようと試みる。これが、自己学習力である。自己学習力は、コンピュータでいえば、外界の反応に従って、自分自身で自分のプログラムを改善することに相当するが、残念ながら、現在のコンピュータには疑似的な学習機能(学習する方法をプログラムとしてあらかじめ記憶させることで、どんどん知的に対処するようにする)をもたせることはできても、本質的な意味での学習機能はない。この点が、コンピュータと人間との本質的な違いである。

問題解決の道具としてのコンピュータ

 コンピュータが個々の人達にとっての情報処理の道具になるためには、私たちがまず人間として情報処理の方法や技術を体験し、それを自己認識した後、その欠点や弱点を補う知恵としての利用方法を位置づけることが必要である。その意味では、コンピュータの活用が前提になればなるほど、コンピュータに出合う前の人としての情報処理体験のカリキュラムが重要な位置をしめる。小学校の情報教育では、特にこの点についての配慮が必要であろう。
 たとえば、統計グラフの表示ソフトの活用は、カラフルでわかりやすく、5年生の社会や理科の授業で大いに活用されることが期待できるが、これはもちろん、グラフの意味や記入方法、作図などの単元を理解していることが前提となる。この段階をとばして、初めからグラフソフトの活用だけに焦点を絞ると、子ども達はそのプロセスの意味することも知らず、受け身的にコンピュータの結果を信じる危険がある。
 マルチメディアによる擬似体験ソフトやハイパーメディアによる検索、あるいは探索ソフトの活用も同様である。ボタン一つを押すと写真が表示されたり、年表がでてきたり、説明を始めたりといった、美しい画面のソフトは最近よくお目にかかるが、これを単に子ども達に利用させ、画面の上の世界を探索させるだけでは、ほとんどの子どもにとって、受け身的な情報の伝達にすぎない(もちろん、教科書や参考書の説明だけよりは理解しやすいとは思うが...)。
 学習の中に子ども自身が疑問をもったり、試みたり、考えたり、失敗を自覚したりするプロセスが含まれていなければ情報教育としてみた場合には意味がない。
 教材がいくら美しく仕上げてあっても、子どもの興味は、すべての情報をあけてみるだけの単なるモグラたたきゲームになり下がってしまう。情報教育のための学習ソフトは、このような子どもの頭の中で起こる学習プロセスのことを良く配慮し、開発されなければならない。

 情報教育の立場からのコンピュータの利用の留意点は次のようになる。

(1)コンピュータが、子どもが行うべき情報処理活動のすべて(特に、選択・判断の部分)を代行してしまわないようにすること。すなわち、情報の収集過程、加工過程、保存、伝達過程などを過程別に支援するような利用を考える(コンピュータの道具的利用と呼ぶ)。
(2)コンピュータの利用が、自らの情報処理のプロセスを確認する鏡になるように利用する。仮説を立てたり、検証したり、情報の種類や量を確認したり、プロセスそのものを再実行したり、図式表示する(コンピュータの鏡的利用と呼ぶ)。プログラミング演習は、この中に入る。
(3)コンピュータがすべてのプロセスを代行してしまう場合には、そのメカニズムや方法、意味についての学習が、すでに他の教科で十分行われていること。もし、そうでない場合でも、ブラックボックスの部分が子どもの興味をかきたて、そのしくみを知ろうと働きかける要因が含まれていること。

情報活用能力はどうすれば育成できるか

 情報教育のカリキュラムは、小中高と一貫して考えられていて、2つの流れをもつ。一つは、コンピュータを中心とする情報の専門科目への準備、もう一つは情報を自らの問題解決に利用できるようにするための情報活用能力の育成である。中学校の技術・家庭に新設された「情報基礎」は前者の入り口にあたり、高等学校段階になると、より専門性の高い「情報の科学」「情報と社会」「情報技術」などの科目につながっていく。新しい科目の教材としてコンピュータが大量に中学校に導入されたためか、「コンピュータの活用は、技術・家庭科の内容であり、他の教科には無関係である」と考えている教師が多い。しかし、コンピュータの専門教育ではなく、後者の情報活用能力の育成については、すべての教師に責任がある。特に小学校の新指導要領では、児童が自ら情報を収集し、加工し、選択し、伝達するという情報処理活動(学習活動)がすべての教科に取り入れられている。また、中学校においても、これまでの受け身的な記憶中心の学習から、課題研究、大量の資料からの検索・調査、機器を利用した実験、他の地域とのコミュニケーションなどを重視するように変更されてきている。

 情報活用能力は、特定の教科だけで育成できるものではない。あらゆる教科を通して機会あるごとに情報の収集、加工、判断、伝達のプロセスを体験させて徐々に形づくられていくものなのである。情報活用能力は「判断力」あるいは「問題解決能力」の一種で、いわゆる態度変容として身についてくるものであり、1、2時間のトレーニングで効果の上がるものではない。また、このような能力(総合判断力)は、それを構成している要素を全部ばらばらに分解して一つ一つ訓練したり、その原理を解明して教え込むだけでは育成できない。

 これらを支えているのは、「知識」と、「技能」に加えて、「場面認知力」である。必要場面で、自分が今まで経験してきたものをうまく引き出して、それを適用することができる。そういう能力は、「体が覚える」ほど、同じような場面で幾度も試行錯誤を繰り返してはじめて体得できるものである。したがって、情報活用能力の育成は日常の授業であらゆる学習場面において体験的に繰り返して少しずつ進めるしかない。
 情報活用能力を求めた授業設計で大切な視点は、次のようなものである。

■主体的課題意識をもたせる

 学習が受け身的ではなく、主体的な課題意識の中で行われることは、情報教育にかかわらず重要なことである。
 しかし、情報教育では、「自らの判断力をつける」、「自分の情報処理特性を知り、それを拡大する」という意味において、子ども自身が学習課題を自分の問題としてとらえ、自ら試みることが特に大切になる。教師は、どんな小さな興味でも、その児童にとって意味があるものを取り上げ、発展させて学習課題に仕立てあげるよう考えなければならない。

■試行錯誤の機会の確保

 自らの知恵を自らつけていくためには、できるだけゆとりをもって学習課題を進めていかなければならない。「なぜだろう」「こうすればどうかな」など自分の仮説をもち実際に試みた結果として、或いは幾度も失敗しやり直してみた結果として、知恵はついていくのである。
 初期の段階では教師がやり方の例を示すことは必要だが、これを教え込もうとすると失敗する。「見かけ上の行動は変化するけれども態度変容にはならない」、「教えられた通り実行するが、自分では判断できない」ということになりかねない。本当の意味での問題解決能力を育成することにはならない。子ども達自身が試行錯誤を繰り返し、自分で解決方法を見いだしていくような体験中心の授業のデザインが必要になる。

■教育的に意図された道具(コンピュータ・メディア)、必要な情報の準備

 子ども達に課題を与え、これを試行錯誤的に解決させるといっても、教師がいろいろと準備を行って、子ども達の課題解決を支援する環境を整える必要がある。この場合も、課題を解決するのは子ども達自身であって、教師が解決方法を直接指示したり、解決結果を教えたのでは何にもならない。情報活用能力は、知識としてつくのではなく、プロセスへの自主的な参加の結果として身に付くからである。課題を解決するための道具やそれに必要な情報を、学習環境としてさりげなく用意することが授業設計で重要な視点になる。

これからの学習環境

 コンピュータは単にコンピュータ教育のための教材としてだけでなく、あらゆる教科で、必要に応じて活用できるように、導入の時点から配慮されていなければならない。また、小学校ではコンピュータを教材として扱う特別の教科はないので、日常の学習場面でさりげなく使えるようにハードウェア、ソフトウェアの選定に特に配慮が必要である。

■コンピュータの配置場所と台数を柔軟に

 情報活用能力の育成の環境としてもっとも大切なのが、コンピュータの配置場所である。先に述べたように、中学校では、コンピュータ演習が正規の授業内容として位置づけられているので、このための設備を無視するわけにはいかない。しかし、このために正規に割り当てられたコンピュータ演習時間は、一人の生徒について3年間で20〜30時間であり、残りの時間は、コンピュータ室は空いている(単純に計算して、1学年10クラス、35時間の演習を割り付けたとしても、演習のためにコンピュータ室を利用しているのは、週10時限分であり、残りの20時限は別の目的に活用できる)。
 したがって、それ以外の活用方法を積極的に模索する必要がある。もちろん他の教科でコンピュータを利用した授業を企画し、子ども達をコンピュータ室に移動させて利用させることも必要であろう。

 しかし、より自然なのは、コンピュータ室に設置するもののうち、数台を必要に応じて教室や理科室、資料室などに移動し、いろいろな目的に利用できるようにすることである。情報基礎の演習のためのコンピュータは、演習に必要なソフトが動く必要最小限のコンピュータにし、残った予算で、移動可能なノート型パソコンとCRTディスプレイ、職員室用に大容量のファイルをもった高機能のパソコンを設置するのも一方法である。道具としてのコンピュータは、必要な場所にいつでも利用できる形で置いておかなければ、使い勝手が悪い。

 サーバ型のネットワークを張ってファイル管理を一元化したり(1台当りのディスクを最小にでき、管理も容易)、プリンターサーバーを入れプリンタの台数を抑えたり(演習時にプリント出力を許さない)すれば、同じ価格でも驚くほど柔軟で実用的な構成が可能になる。コンピュータ利用を、(1)実習用、(2)事務処理用、(3)教務や教材作成用、(4)演示用、(5)日常の教科で活用する道具、などに利用目的を分類し、コンピュータ実習用、移動可能な単機能のもの、本格的なシステムなどに機能を区別して、必要な場所に計画的に導入するほうが結果的に得策になろう。

■操作性のよい楽しいソフトウェアを!

 コンピュータを日常的に活用するためのもう一つの視点は、初期に導入するソフトウェアの工夫と、子ども達が自由に使いこなすための授業の計画である。特定の教科の指導のための利用とは異なり、子ども達が自らの学習活動を支援する道具としてコンピュータを使いこなすようにするためには、子どもの自主性に任されたゆとりある学習が考えられなければならない。ソフトウェアも、教え込み型のものだけでなく、音楽を作ったり、絵を書いたり、文章を作ったり、グラフにまとめたり、情報を探したりといった創作的活動も支援できるものを意図的に準備する必要がある。ソフト間で、操作性が統一され簡便であるソフトを選ぶと、ある教科で1〜2時間演習するだけで、あとはどの時間でもエンピツやノートのようにコンピュータを使いこなせるようになる。同じ予算を投入するのなら、ハードウェアだけにでなく、このような基礎的なソフトウェアや運営のための工夫により多くの予算をかけてほしい。そうでなければ、いつもコンピュータの操作の仕方だけに授業時間がさかれ、本来の情報活用能力の育成につながっていかない。

■子どもへのコンピュータの開放

 コンピュータは、学習場面の必要なところで自由に活用できるように、ソフトウェアや情報がさりげなく用意されている必要がある。授業時間だけでなく、休み時間や放課後にも興味のある子どもは自由に利用できるように、教室を開放することも情報活用のためには必要である。そんなことをしたらコンピュータが壊れたり、紛失したりするのではないかと心配される管理職の方々も多いことと思う(特に生徒の荒れている中学校や高校では、演習時間以外はコンピュータ室に鍵をかけたり、鎖でつないだりすることを計画されているところもあると聞く)。しかし、実際には、子ども達に開放したために、コンピュータが破壊されたり、盗まれたりしたという例はあまり聞かない。彼らは、「管理する」という堅い体制には反発してくるが、一人ひとりに区別なく平等に接してくれるコンピュータは友達なのである(むしろ、使えないように管理するほうが反応が怖い)。

 筆者は、コンピュータの子どもへの開放に成功している小学校をいくつか知っている。これらの学校もはじめは、コンピュータをコンピュータ室に配置し、子どもをその教室に移動させて利用していた。しかし、数年の経験で、この方法では日常的な学習場面で主体的に活用させることは困難であることがわかってきた。結果、コンピュータは教室の間のオープンスペースに移動され、いろいろなコーナーに置かれるようになってきた。機器の導入時期が異なったため、ハードの種類もいろいろで、データベースソフトが動くものもあれば、測定器につながっているもの、パソコン通信で電話につながっているものもある。

 子ども達は、必要なときに、コンピュータを教室に持ち込んで来たり、オープンスペースに行ってグループで調べたりして課題解決に主体的に利用するようになった。しかし、これは単に配置だけの問題ではなく、教師のグループは、機器の配置、学習課題の設定、ソフトウェア、利用のルール作りなど十分に時間をかけて準備し、学校全体として協力して仕掛けを作ってきていることも事実である。コンピュータの導入とはハードウェアを購入することではない。ソフトやハードの配置の仕方、学習での利用の仕方、教師のかかわり方を十分に考慮して活用すれば、同じコンピュータでも、創造性を高めたり情報活用能力を育成する道具に発展させることができるのである。

 これまで論じてきたところから、学校教育における「情報教育」で重要と考える点をまとめてみる。

1.情報教育では、子ども達が、与えられた課題を自分の問題としてとらえ場面の中で体験的に学習しなければならない。「情報を処理する能力」ができるとは、例えていえば、「自分の頭の中に自分で処理方法のプログラムを作る」ということである。教師の仕事は「自分で問題をとらえてくれるように、あるいは、自分で自分の情報処理活動をモニターするような場面を意識的に学習場面の中に作りだしてやる」ことである。

2.情報処理活動を意識化させるためには、問題解決に「必要な情報」と「道具」をさりげなく用意する必要がある。もちろん、子どもが利用できるような環境を用意して、ちょっとした道具の使い方を教師自身が示すことが必要である。しかし、子供にそれをまねするよう指示したら失敗である。道具の使い方を明示すれば、学習者はすぐ受け身になり、処理方法は単に知識として伝達されるだけで問題解決能力にはつながらない。技術として体得するためには子ども自らが失敗しながら自分で評価し、自ら修正して学ぶように工夫する必要がある。

情報教育の目標と評価

 教育工学による実践研究と言えば、(1)教育機器など新しいメディア等と教育との接点をどのように考えるかという領域と、(2)教育実践を工学的手法(すなわち、設計・実施・評価、フィードバック、改善)といったプロセスで改善していく授業研究法の2つを指している。情報教育が教育工学で取り上げられるのは、それがコンピュータという新しい機器と深い関係にあり、コンピュータの教育への有効利用が(1)の領域にぴったりとあてはまることになるからであろう。(1)の領域に興味をもつ実践家の多くは、教育工学的手法についても日頃から実践している場合が多い。すなわち、「単に、実践しました」というのではなく、授業の設計時において、実施の状況を明確に記述し、実施時に測定されたデータとの差異を明らかにして、設計を評価するわけである。しかし、情報教育の実践と評価を考えるとき、評価すべき項目を何にすればよいのだろうか。

 従来、教育工学的手法においては、目標を明確にすることが第1段階の作業であった。しかも、この目標は、達成したことが測定可能な行動目標で記述されることが求められた。これは、授業の実施後、設計を改善するためには、目標が達成していたかどうか実証的に評価されなければならなかったからである。しかし、最近の教育工学研究者の研究成果によっていくつかの新しい視点が指摘されてきている。たとえば、教師が授業設計を行う場合には必ずしも、目標から考えるわけではないという指摘である。これらの視点として、教師のねがい、目標、学習者の実態、教授方略、教材、学習環境や条件 などがあげられている。

 ところで、情報教育の目標のように、個人の判断力の育成のような長期的展望をもった目標の場合はどのように考えればよいのであろうか。このような教育は、いわゆる内的な変容をねらったものであり、1時間のトレーニングで効果の上がるものではない。情報教育の目標は、先にも述べたように「コンピュータの技術が発展し、本格的な情報化社会がきたとき、扱われている情報そのものの信頼性を自分で判断できたり、あるいはどうすれば、その情報が自分の問題解決に使えるかという知恵をもつこと」である。これは、「判断力」あるいは「問題解決能力」といったもので、広い意味での「技術」ということになる。「判断力」育成のカリキュラムは、それを構成している要素を全部ばらばらに分解して一つ一つ訓練したり、その原理を解明して教え込むだけでは、育成できない。これらを支えているのは、「知識」と、「技能」に加えて、「場面認知力」であろう。必要場面で、自分が今まで経験してきたものをうまく引き出して、それを適用することができる、そういう能力は、「体が覚える」ほど、同じような場面で幾度も試行錯誤を繰り返してはじめて体得できるものである。

 したがって、それは日常の授業であらゆる学習場面において体験的に繰り返して少しずつ進めるしかない。しかも、子ども自身が自分の問題としてとらえ、自ら試みることが大切になる。教師は一例を示したとしても、これを知識として、教え込もうとすると失敗する。教師の一例はあくまでも一つの例示にすぎないことをうまく伝達する必要がある。筆者は、情報教育の実践において重要な視点として(1)主体的課題意識、(2)試行錯誤、(3)意図的にデザインされた道具、(4)問題解決に必要な情報の準備、(5)自己による評価、再試行、(6)パートナー、カウンセラーとしての教師 の6点をあげた。

 教育工学は、設計-実施-評価という授業改善手法を提唱している。そこで強調されてきたのが、行動目標主義である。行動目標主義では、目標を具体的に測定できる学習項目として記述する。もし、直接の学習項目が測定できなければ、この目標が達成されれば、こういう行動を起こすであろうと予測し、これを行動目標として記述する。しかし、このような行動目標が一旦具体的な達成目標として明示されると、カリキュラムは行動を起こすように起こすようにと短絡的に変更されていく。教師は、測定できる行動を起こしやすい環境を作ろうとし、教師の期待する目標を察知した子どもは、直接的に行動を示するように振る舞い始める。情報教育を進めていくためには評価の問題は不可欠であるが、結果を急ぐあまり、もともと、自発的な、主体的なかかわりでとらえられるべき情報教育の目標が、評価のシステムを加えたことによって、単なる知識や技術のトレーニングに終ってしまう危険性をもつ。
 このようなことをさけるためには、情報教育の評価においては別の観点を考え出さなければならない。

情報教育を支える教師

 情報教育を支える教師像が筆者にはある。情報教育を支える教師というのは、少なくとも自分自身の問題解決に情報を活用できる能力をもとうと努力している姿勢が要求される。自分自身の情報処理プロセスを自分で対象化できていない教師が学習にかかわっていても、子供に情報活用能力を育成する場面には逆効果になる。
 ここに、教師のコンピュータの活用とそのための環境の問題が出てくる。教師自身の問題というのは、たとえば、「授業の改善」や「学校事務の効率化」、「学級経営」、などである。もちろん、すべての情報の活用にコンピュータが不可欠というわけではない。しかし、コンピュータの特性を知り、必要なときには利用し、不必要なときにははっきりと拒否するための知識や技能をもつことは、情報教育を実践する場面にかかわる教師の一つの資質である。
 さらに、子どもに対する教師の役割の変化を認識していることが必要である。従来のように、教師の役割は情報を整理し、その整理枠を子ども達に教え込んだり知識を伝達することではない。子ども自身が情報処理能力を身につけるような課題場面や情報環境を用意し、さらに、学習の場面では、教師も共に参加するといった役割が必要となろう。すなわち、知識の伝達者ではなく、学習環境のデザイナーとしての教師の役割である。

 情報教育が成功するかどうかは、コンピュータの導入状況や教師の操作能力の問題ではなく、むしろこのような、「学習観の変容」や、「意識の変革」に教師がついていけるかどうかにかかっている。

(パソコン活用大百科 1994年版 実教出版,P92-103より転載)


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